理想の教師像。そんなものがあるか?という人もあろう。たとえあったとしても、またそれは人により異なるものだ。したがってあくまでも個人の意見という領域をでない。だからここに書くものも”俺の理想の”ということになろう。
まず形式的に公平であってはならない。弱い立場の方に優しいことは重要だ。つぎに自己の教育理念を持っているものでなければならない。他者から言われたことのみに従う者では仕方がない。更に信念の人であることも必要だ。よく昔は”ワル”だった的教師がもてはやされる傾向をみる場合がある。これは彼ら、ときには彼女らの現在における熱意に対しての評価が、過去との関連で見られないからであろうし、あるいはこの国では過去はワルかったが、そんな人物でも今はこんなに頑張っている風なメディア受けする下地があるからだろうと察する。しかし、この種の者は”俺の理想の教師像”に全く入らない。なぜなら、理想の教師は、表に目立つものであってはならないからだ。自己主張ないし信念は、真に子供にむかったものである必要がある。すこし目を覚ませば、誰もが気づくことだが、昔”ワル”だった的状況の極致は犯罪者(殺人、強盗、放火・・などなど)だろうよ。
他の仕事であればいざ知らず、俺は”理想の教師像”に持ち上げることはできないと考えている。人が社会を形成したころから”人の道”に反することだからだ。メディアで持ち上げられるそんな教師がいたら、やはりおかしいと思うのである。
子供のころに、良い師と出会い、自分もそうなりたいと決意し勉学に励まれた。寡黙ではあったが、ことの是非については一歩も譲らず、弱い子の味方でもあった。決して激怒するようなことはなく、常に冷静であり、
穏やかな口調である。若いころ戦場で銃弾を受けすこし足が不自由だ。
なにかあったら、相談に来いと卒業時には、激しい声をかけられる。そんな彼は、もう随分前に、他界されたわけであるが、彼の教えた生徒の心にはきっと彼の像がずっとずっと残っているだろう。
”理想の教師像”は、きっと生徒の方が大人になり、そして年老いてさえも、人格的に近づくことが難しい、思い出すごとに心の琴線を揺さぶる存在だと思う。残念ながら、激動期を生き抜いた人にしかそんな教師がいないのもうなづける。

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