客観的、ないし客観性という言葉で語るものはなにか。それにも個人差があり、そしてまたそれを使うコンテクストにおいて違いがあるかもしれない。ここではデータとして信頼性ある場合を、客観的ということにする。そうするとその対立概念が主観的、ないし主観性となる。
例えば、受験に臨むにあたり、模試の結果や学校での実力テストの結果を参考にするのは客観性を重視するからだろう。それは、そのデータとして提示されたものが、合否の可能性を示すと考えるからだ。われわれはこのような客観性を無味乾燥なものと捉え、時として客観性の隙間をよりどころとしたがる傾向もないではない。例えば占いなどはその類ではないだろうか。あるいは超能力とよばれる類のものでもよい。「あなたの後ろに見えますよ。」「そうね、見えるわね。」などといった会話に対して、「すごーい!何でわかるんですか?」的な会話が、ジョークとしてではなく真に受けられるのは、その例であろう。客観性の隙間に、科学的英知では到達できないものを愛しようとする性ともいうべきものだ。それはそれで娯楽性があってよい。データ的ではないという意味で、主観の域を超えないお遊びだからだ。
ところで、このような客観の隙間を埋めるという「主観のお遊び」も度を越えたら、それは遊びとしては笑えない。例えば、占いなどで「あなたは合格します。」とか「あなたは事業に失敗します。」とかだけではなくて、「私のいうことを聞かないと・・・・になる」などと言ったりする例であるし、DNA鑑定などによるデータに対して、裏づけのない反論を展開するなどである。それらはあたかも別次元のことのようではあるが、データ的なものの否定という点ですべて主観的なのだ。
もちろん、ここで主観性を否定するものではない。それは人と人との人的交わりの潤滑油として、他者のアイデンティティーを理解し、社会を構築する欠くべからざるものだからだ。しかし、一方で、主観と客観は、いわばその活躍の場をことにする。客観的に決まる試験の合否の可能性は主観的には判断し得ない。同じようにDNAによる親子鑑定といった客観的結果に対して下される別の判断は、その判断主体が国家という体をなしていようと主観的なのである。
塾において、中3の諸君に日々のテストと合否の関係を話すことがある。それは常に俺個人の判断を超えたところに合否があるということを伝えたいからである。そしてまた日々の努力を重ねてほしいからでもある。

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