国語の問題には、本文中が空欄となっていて、その空欄に適する語を記入する問題がある。その適する語を本文中から探す問題はよく見かけるものだ。
ところで、このような問題について(特に入試問題)、”正解”として書かれている解答がさまざまなものがある。どれも正解なのか?それともどれもが間違いなのか?生徒は迷うところだろう。有名な先生が、大威張りとまでは行かないまでも、解説を加えられている答えにも、そのような複数解答が散見する。
しかし、このような問題にぶち当たったからといって悩む必要はない。解答が専門家においても分かれる場合には、どちらも正解となりうる可能性もあろうが、もっとも文理的に妥当な方は、論説文などであれば、同様の表現が使われている文脈であって、さらに空欄を含む文との意味の上での重なりが多い方をえらぶという解法がより客観的である。その場合には
自ずと、専門家の一方の解答は間違いとなる。
実はさらに面白いことも起こり得る。それはそのような方法にて空欄に妥当する語を文中から探し出していれて正解をえてみても、それが原文とはことなるという現象である。原文、つまりオリジナルが間違いか?あながち、そうとも言えまい。なぜなら原文の著者は全体的論理性のなかで語を選択している場合が多い。長い文章の一場面のみを材料として出題されるということを前提に書いているわけでもないからである。
ある少年が、学校で出題された論説文の問題が解けないので、その父に聞いたそうだ。その父も、ん・・・難しいなと考え込んだ。実はその問題文の原文は、その評論家たる父の書いたものであったが、彼は忘れてしまっていたのである。この話はご存知の方もあろう。たしかに国語の問題の解法は、論理性が大切だろうが、こんなパラドックスもあるわけである。

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