0、始めに
今の地球では、近代になって成立した「国民国家」というモノで世界中が隙間無く覆われ、この中に…全ての民衆が「国民」として、全ての土地が「領土」として、囲い込まれています。
ともすれば我々は、この状況が遥か昔から未来永劫まで続くものの様に考えてしまいがちですが、本当に果たしてそうでしょうか?
歴史的に現在の「国民国家」が成立したのは、先進列強による世界分割が終わった後に、第2次正解大戦後の民族自決権の高揚期を通じて各植民地が独立した後に成立したものであり、決して古いものではありません。
それ以前は国家も確定した領土の境界も持たない人々や共同体も多く存在していたのが、この地球の状態でありました。
また一旦成立した「国民国家」というモノは、領土や資源といった(人命とは異なり)代替のきく問題を理由にして、相手国の国民だけでなく自国の国民の命すら、何の惜しげも無く奪う…戦争という繰り返されて果てしない愚行を繰り返しており、人間中心に考えるのであれば、決して完璧な「道具」では無い事は、良識の有る多くの人々にとっては共通認識になっていると、私は思っています。
(そもそも「国家」というモノと「国民」というモノの利益が同じである保障は何も無いどころか、多かれ少なかれ【矛盾】している状態が常態とも言えるのに、それを一つの言葉に結び付ける所からして、それはそもそも【自己矛盾】を孕んだ存在であると言えます)
そして、この「国民国家」の成立過程と重なる様に、政治においては、【左翼】と【右翼】という2つの相容れない理念を掲げた潮流が発生しました。(例:フランス大革命)
では、本来の歴史的な意味における【左翼】と【右翼】とは、如何なる存在であったのでしょうか?
そもそも「左」とか「右」というのは、フランス大革命後の代議制民主主義における議会において、フランス大革命を支えた理念である…人間である限り誰でも普遍的に持つとされた「人権」の価値を「国家」といった存在を代表とする「その他の価値」に比べて、至上性を持つと考えたのが【左翼】であり、逆に「人権」を実際に保証する「道具」に過ぎない「国家」やら、「国家」に囲い込まれた民衆の持つ「文化」やらの価値によって「人権」が制限され得る存在としてしか見ないのが【右翼】でありました。
(彼らが、議会において議長席から見て「左」と「右」に集まって着席して来た事が、この言葉の由来です)
現在の世界においても、国家は存在して互いに(国際間の)懸案を抱えていて、直近の例を挙げますと「尖閣諸島」問題などに対する態度などがあり、そういった問題に如何に対峙すべきかを巡って、【左翼】と【右翼】という対立軸は、(国民国家が有る限り)未だに有効であるというのが、私個人の考え方であります。
もちろん【左翼】と【右翼】の対立軸は、何も国際問題(国民国家の矛盾が最先鋭化する問題)に限る訳では無く、例えば各国民国家の中で個別に(程度の差は大きいですが)保証されていたり居なかったりする「人権」を巡る諸問題…例えば福祉政策によって社会的弱者と強者の格差を埋めて(その国家内で)普遍的に実現される最低限度の「人権」とは何か?といった問題について、また強者と弱者に如何に「国家」という「道具」を支える税制を課すのが妥当であるのか?といった問題について、TPPなどの貿易を巡る自主権が国民の誰を利する問題なのか?といった問題について、また原子力発電の存在が誰を最も利す事になり逆に誰にとって最もリスクを負わせるか?などといった問題について、それぞれに存在しており、最近では良く言われる「右も左も無い」という観点は、私にとっては【幻想】に過ぎないと考えています。
しかし今回の本記事では、そもそも【左翼】…(あるいはソレを自称する者)にとって、今の世界の標準となってしまっている「国民国家」という存在の見方と、その「国民国家」が互いに引き起こす懸案事項(場合によっては武力行使を伴う紛争や、最悪の場合には国民の殆どの生命が危険にさらされる事態=全面戦争にも為り得る)が確実に今も存在している事について、【左翼】は如何なる態度を持って臨むべきかを、更には現状の「国民国家」という(自己矛盾した)世界体制を如何なる方向に向けて変革していくべきなのかについて、私見ながら概論したいと思います。
1、そもそも【左翼】とは「国民国家」という存在を如何に見るか?
そもそも【左翼】とは、歴史的にも、人間である限りは誰もが持つべき基本的な【人権】というものの、普遍性と至上性を主張する存在であったのは、上述した通りです。
その【左翼】から見た「国民国家」とは何か?という問いの答えは明快であります。
すなわち、歴史的に制限された存在であるとは言え、現在の人間の一定の共同体内部での利害を調整する「道具」として(またその限りにおいてのみ)、その「国民国家」の限界の中でも【左翼】の要求する人権を具体的に実現する為の物理的な保障を行わせる「組織」として機能をさせる「存在」であり、逆に国家が持つ強制力(暴力性)からは国民の自然権的な「人権」を守るべく行動をチェックすべき「存在」であります。
上記の前者の側面における「国家」とは(囲い込まれた範囲に留まる限界があるとは言っても)未だに積極的に利用すべき「道具」という積極的な関わりを持つべき「存在」でありますが、逆に後者の側面における「国家」とは(その囲い込み機能の悪しき側面が機能する)本来の目的に反するという意味で「道具」としては失格(否定的)な存在であります。
この様にして、本来の意味での【左翼】を自称する者は、今の「国家」というモノに対して、その積極的な側面と、逆に否定的な側面を、扱っている事柄の具体的な問題と「人権」との関わりから、その両面を分析的に具体的に見て、その総合的な行動(働き掛け)の有り方を考えるべき対象であると言えるでしょう。
ここで注意しなければならないのは、単純にスタイルとして「反体制」を演じる事に自己満足を覚えるだけの本来の意味での【左翼】に値しない存在を反面教師とするならば、常に歴史的に制限を持つとは言っても「国家」という現在の共同体の上に作られた「組織」=強制力について、具体的な普遍的な「人権」の実現(例えば所得の再分配)などで、民主主義という(民=「たみ」が主=「あるじ」という)別の主体的な責任原理に応じて、責任ある態度で「国家」に「人権」の実行を求めるという(具体的には結党の自由などを行使して政策も提示するという)、主体的な態度でこそ臨まねばならない事もあるという事であり、反面で同時に国家という「組織」=強制力の持つ暴力性から自然権的な「人権」を守らねばならない側面も確かにあるからと言って、主体者としての「責任」は忘れてはならないという事です。
こういった民主主義が求める「責任」に対して無自覚であれば、他方で如何に「国家」に不備があろうとも、肝心の【左翼】自身が、大衆からの支持を取り付ける事が困難になるどころか、現在の日本の【左翼】陣営の凋落に見られる様に、大衆から見放された存在になりかねないという事です。
一言で言えば【左翼】を志すならば、絶えず「現実」というモノに向き合い、特権に対して自己を戒め、「人権」に照らして必要ならば自己の不利益も甘受し、常に自己の成長を図るべく自己研鑽に努める事です。
※7/30:追記
逆に、こうした【左翼】としての【原点】=普遍的な人権の至上性を完全に喪失したのが、スターリン体制下のソ連という「国家」であり、また中国の支援(毛沢東主義)を受けて成立し自国民の3分の1を虐殺したカンボジアのポルポト政権下の「国家」であり、現在も続く北朝鮮や中国による自国民を弾圧する「国家」であります。
これらの「国家」は、本来の【左翼】の定義である「普遍的な人権」を至上価値として、国家の上に置くのではなく、逆に「国家」こそを至上価値にして無慈悲な「人権」への弾圧を行ったという意味で、真の【左翼】にとっては、単なる【打倒対象】でしかありません。
勿論、かといって打倒する為の「全面戦争」は到底容認し得ないので、現時点では国際的にも普遍的であるべき「人権」の観点から、躊躇の無い批判はしつつも、それを打倒する権利は一義的には当該国民にしか無い事を尊重し、当面は「共存」の道を探るのが現実的な選択ですが…
こうした事を(時々の勢力競争だけに左右されず)見極める目も、真に【左翼】を自覚する者であれば、欠かせない事は言うまでも無く、これらに協調する【自称だけの左翼=サヨク】を、徹底的に批判し尽せるだけの、理論武装を自分自身で行える自己研鑽こそが求められるという(現実的に存在する)所以(ゆえん)でもあります。
(※追記終わり)
2、「国民国家」が互いに引き起こす戦争や懸案事項に【左翼】は如何なる態度で臨むべきか?
ここまで読んで頂いた方には言う迄もなく、そもそも本来の【左翼】の目指す【人権】とは、人間である限りは誰であれ認められるべき普遍性を持った権利であり、一部の人間だけの【特権】とは対峙する考え方でありますから、現在の「国民国家」という枠には収まらない国際性を持った考えを基本とします。
しかし現実には、世界は不均等に発展しており、物理的な側面で「人権」を保証する産業の成熟度も、制度的な側面で「人権」を保障する民主主義の成熟度も、大きく異なった国家が「たった一本の線」を境に、共存と同時に利害を対立させながら存在しているのが現実です。
この不均等さと、それとも関わりが深い利害の対立が、既存の「国民国家」という世界体制では、様々な軋轢を産み、紛争や、場合によっては(一方もしくは双方の国の)国民全体を巻き込む【戦争】を引き起こしています。
こういった数ある【人権】の中で最も基本的な【生存権】の否定に繋がる【戦争】に如何に対峙するかといういう事は、【左翼】にとっては、その真贋が試される…最も問題が先鋭化した問題であると言えるでしょう。
単純な【理論】だけに従えば【左翼】とは全ての【戦争】に反対する存在である筈ですが、実際には「国民国家」という「組織」の枠に自分自身が囲い込まれた現実に照応して、例えば「自衛」などを名目にすれば、それが(自国の国民の全ての命を懸けた)全面戦争にすら反対できないという事態が、往々にして発生しています。
また、現実に【戦争】という事態に対応する為の国家による暴力組織である「軍隊」が、殆ど例外が無く世界各国で(憲法9条を持つ日本も例外では無く)存在しており、その軍隊という【実在】に対抗するには、実現されない限りは単なる【理論】に過ぎない【人権】を声高に叫んで「戦争反対」を一方的に主張する事に対し、それに何の意義があるのか?…といった批判は、容易に為し得る事でしょう。
こういう【現実】に対して、では【左翼】とは如何なる戦略で変革を試みるべきでしょうか?
私自身は、日本の憲法9条の精神を支持し改正に反対して居ますが、その本意は何も現在の世界状況において日本を丸腰で放り込む事を意図しての事では【無い】のです。
憲法9条が意義を持つのは、国際紛争を解決する為の手段としての戦争の放棄と、その為の軍隊の保持を禁ずる事によって、現実の国際関係の現代史的な歴史過程で生まれた自衛隊をも、あくまで法概念における【緊急避難】的にのみ許容される脱法的な存在に留める事、その武力の行使を同様に【緊急避難】が適用され得る偶発的な接触や局地紛争の範囲に留め、国民の大多数を巻き込む全面戦争という最悪の事態=決して【緊急避難】には当たらない…を阻止する為にこそ、有効な条文だと思っているからです。
つまり、私個人の解釈によれば、例え「自衛」の名が冠していても、局地紛争の段階で外交的に収束させ得ずに、全面戦争で「人命」では無く「国家」の政体という「組織」を守る【目的】に至る事態は【人権】に照らせば全く【緊急避難】には論理的に成り得ないという、ただその1点に尽きます。
※7/30:追記
上記の論脈では、現在の現実である「国民国家」世界体制の下で、止む無くも容認される事として、プロとしての自衛隊の存在や、抑止力としての自衛隊への軍事費の支出には、一概に反対ではないとかといった、私個人の意見も反映されています。
しかし、例え侵略を受けた側にとっても、左翼の守るべき人権の普遍性の観点からは、自衛(全面)戦争を容認できないという点において、最後の一線を守る事に主眼を置いた立論であり、動かしがたい現実に対峙した時の「理論」の限界の表明とも言えるかもしれません。
(※追記終わり)
ただ憲法9条は、戦争が絶えない現実の世界の中では「狂気」でしか有り得ないという見方もありますが、私は同時に「国民国家」という「狂気」に対峙する民衆の命の尊重という「狂気の中の正気」の表明としての、意義が尚も有るのが確かだと考えるからこそ、改正に反対なのです。
この(私が考える)憲法9条の精神は、引いては【左翼一般】の現在の「国民国家」世界体制における、国家間の紛争に対峙すべき態度に、拡張する事は不可能でしょうか?
単純に、軍事費への支出に反対したりするだけでは得られない(好きな言葉ではありませんが「抑止力」というモノの現実も包摂した)説得力は有ると私は考えます。
【左翼】とは何より、現実の「国民国家」という矛盾と狂気の【現実】から出発して、戦争を起させない為に必要な譲歩(緊急避難の範囲での軍事力の許容)はしつつ、最後の一線とも言うべき、国民の大多数の命が損なわれる危険のある【全面戦争】だけは絶対に許容しない為に、そこに至るまでに可能な限りの努力は尽くしつつ、それでも「国民の大多数の命」という「人権」の最低限を維持する為の降伏か?、それとも「国家」という道具=組織の存続か?…という究極の2者択一にまで追い込まれたら、迷わず前者を選ぶのが【左翼】の持つ「革命的敗北主義」だと思うのです。
その結果として、非占領の憂き目というか塗炭の苦しみを味わおうと、屈辱であれ「命」に勝る価値など存在しないという【公理】と、如何なる環境に置かれても(勇ましく死に急ぐのでは無く)生き延びた「卑怯者」こそが後の歴史を創って来たという歴史的な経験にも鑑み、新たな環境下で自己を変化・成長させて生き延びながらも(いつか)占領権力が腐敗し隙が出来るまで草の根で力を蓄えて、いつか再独立を勝ち取る方が、全面戦争などよりも(特に「核」の時代においては)遥かに少ない犠牲で済む筈です。
被占領下では自分や自分の子供(家族)の命を守る為に、権力に迎合せざるを得ない事態だって、幾らでもあるでしょうが、それを責める事など誰にも出来ない話であり、それよりは人間が賢く(命を守りながら)反抗の芽を広げる事が出来るまでに変化・成長できる可能性に賭けるべきでしょう。
これは、かつて行われた殆ど全ての戦争が、「自衛」や「正当防衛」を口実にした殺戮でしか無かった事への反省であり、もしも…もう一つの【公理】として、人間は環境に応じて(現実に接し)学び発展できる存在である…という事を認めるのであれば、そこにこそ【左翼】は可能性を信じて道を選ぶべきでは無いでしょうか?
※7/30:追記
こうした人命を至上価値にする観点が、最も普遍的に現れるのが、親が子供を想う気持ちです。一体…何処の親が子供に対して戦争に行ったり、無謀な「反抗」で命を落とす事を願うでしょうか?「命だけは大切にしろ」とか「親より先に死ぬな」こそが、全ての親の本音では無いでしょうか?
無論、いかなる「理論」にも限界は有り、親が子供の命を救うためといった時に、正に殺される瞬間に【緊急避難】的に(状況によっては)、逆に他所様の子供でもある「敵」を殺してしまうという様な「限界」はあるでしょうが、それ(一面で見れば「理論」の一時的な敗北)をも辞さず、一人でも…より多くの「人命」を残す事こそを、本来の【左翼】を自称する者であれば目指し追及し続けるべきです。
同じ様な「限界」は、独立闘争や開放闘争の一般にもあり、例えば朝鮮半島が日本の植民地から抜け出すに当っての外国の支援(米国等)を要した事や、ポルポトの虐殺を止めたベトナムによるカンボジア侵攻を経て実現したという問題はありますが、それもやはり本来の【原則】=人命の可能な限りでの尊重…という視点からの、歴史的な審判(批判)を受ける覚悟と、あえて歴史にIFは無いとは云え(後世からであれ)問題点を見極め(必要ならば)批判もする自由な視点は、常に自己を変革し成長させる【左翼】には必要でしょう。
(※追記終わり)
もちろん、上記の様な状態は、「国民国家」の関係として「最悪」の場合を想定しており、不均等な力関係にあるとは言っても、よりマシな外交的な解決を図る事が、最初から不可能だとして想定しているのでは無いのですが、そもそも歴史的には何処の国でも無かった無人島や、代替の効く資源などを口実に、(代替の効かない人命が損なわれる)戦争を招くなどという程に、人命や「人権」ひいては【左翼】自身の存在意義に対して愚弄に満ちた事は無いでしょう。
私は、尖閣諸島問題(これ自体は中国の主張に無理が多い)を口実にして、自己の政治的な宣伝に利用した「火遊び」をしている右派勢力対して、最大限の軽蔑を感じます。
(彼らが、私の提示した、2つの公理=人命の至上性と、人間の変化の可能性に、信を置いていない事は明確です)
こういった、リアルな問題に、現実的かつ冷静に対処する事から、今の「国民国家」という狂気が齎す問題に、対峙していくべきだというのが、私の主張です。
(時には、たかが「道具」に過ぎない「国家」だと言う、冷静さが必要でしょう)
3、「国民国家」という世界体制を如何なる方向に向けて変革を目指すべきか?
ここからは、歴史の現在ではなく、「未来」に属する問題ですから、別に同じ【左翼】であっても、様々な意見が有っても良い問題だし、全体としての方向性は、それこそ「対話」によってこそ得られていくものだと考えます。
私はここで、第3の公理として、人は一人では生きられず何らかの「共同体」を常に創って生きていく存在…という前提を入れたいと思います。
私は共産主義(=将来の国家の死滅を予想する)からすれば、異端になるのでしょうが、人類にはSF映画みたいに宇宙人という【外部】でも存在しない限りは、世界連邦といった単一国家には成らないと思ってますし、また地球上の各地域での「国家」と呼ばれている存在も、その性質が住民と領土を囲い込むという近代の「国民国家」という性質のままで、未来永劫に続くとは限らないまでも、地域共同体(町内会とか)の延長としての住民自治組織として、犯罪等を取り締まる暴力装置としての機能と、普遍的な人権の物理的な保障である福祉政策とかを実施する機能として、人類が続く限りは残ると思ってます。
しかし果たして、上記の2つの機能に集約されただけの共同体的な組織を、現在の「国民国家」と同一名称で呼ぶべきか(果たして未来において呼ばれているか?)は、知りませんが…
(こういう共同体は否定しませんし歓迎です)
そして…そういった共同体で、排他性の無い、自由で緩やかで豊かな連帯のある、地域共同体から世界共同体に連続する世界を、私は夢見ます。
しかし、上記の私の夢を阻むものが、現在の「国民国家」に与えられた「軍事力」という、排他性の象徴であるならば、憲法9条の精神こそを、世界に敷衍していく必要があるだろうと思っています。
しかし、この「敷衍」という過程には、強制や押し付けは一般的に通用しない事は、戦争を行う事が息をするのと同じ様に普通に感じている人間に、まるで「息をするな」と命じる様なもので、単純な「押し付け」では実現しない事は明白でしょう。
(それに思想の「強制」は、思想の「自由」という【人権】には馴染みません)
ここで【左翼】が本来は持っていてしかるべき、【人権】の至高性をの実現を図る上で必要な事を、既に持っているモノの中から当て嵌めてみるならば、そこで要求されるのは、やはり私が先に示した2つの公理=@人命の至高性、A人間は現実に接する事で発展成長できる存在…という事(信念)を、広く「対話」を通じて血肉にしていく事でしか、憲法9条の精神も広がっていかず、それを世界標準にして、既存の「国民国家」から「軍事力」を奪う事は出来ないでしょう。
それは、まだまだ何世代にも渡る長い道のりになると思われますが、決して不可能な事だと私は考えません。
現生人類は、16万年前とされる発生(恐らく単一グループ)から、約7万5千年前の人類が一度絶滅の危機(個体数が1万以下に減った)を乗り越え、約5万年前にアフリカを出て世界に拡散しましたが、その5万年など…僅か2千500世代に過ぎません。
現在の世界的な拡散(文化や人種の多様化)が、僅か2千500世代で行われたのであれば、仮に同じだけの時間が経過しても、現在と同じままだと考える方が、むしろ馬鹿げていると言えるでしょう。
人類が、「人権」やら「民主主義」というアイディアを得てから、まだ約15世代しか経っては居ません。(フランス大革命から勘定しても)
私は、人類が自ら創りだした国家による「壁」を、いずれ超えて行く事に、殆ど疑いは持っていません。
ただ必要な事は、一時的な敗北は避け得ずとも、為すべき事=自己研鑽と成長を、腹を据えてただ為す事に尽きます。そういう意味で、私は一人の【左翼】として、孤独の中からも、常に【連帯】を呼びかけ続けます。
一つだけ確実に言える事は、未来とは現在の努力によって創りだし続けるものだということです。これからの【左翼】が偏狭なナショナリズムから自由になる為に、皆で努力する様な【連帯】を呼びかけて、この小論を終わります。
※追記…誤解を避ける為に:
私は【左翼】の伸長を願って本記事を書きましたが、それよりも更に恐ろしいと思っているのは、(例えば「自衛」戦争などなどと銘打たれた場合に現出する)「右も左も無い」といった(多様であってしかるべき)世論の単純な収斂であります。(それこそがファシズムというモノでしょう)
ですから、私は【左翼】が偏狭なナショナリズムを超えて【連帯】を広げる事は願ってますが、その一つの思想に世界が収斂されるべきとも考えていません。(多様であってこその豊かさです)
その意味で、私は安易な「右も左も無い」という言辞に警戒感を拭えません。(現実が矛盾している限りは対立軸は有ってしかるべき)
その意味において、下記の古寺多見さんの記事なども御参照下さい。
きまぐれな日々 「『右』も『左』もない脱原発」は支持されていない
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1262.html

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