歴史を紐解けば、文明自体に対する有効な批判を文明内部で持ち得ずに、崩壊していった過去の文明は枚挙に暇がありません。
何故?…現在の「現代文明」だけが、(もう滅びる事の無い)まるで未開文明からはテイクオフしたかのごとき楽観を(世間の空気として)許容しているのかについて、私は幼い頃から疑問に思っていました。
今回この本記事で問題にしたいのは、一面では栄華の絶頂を極めたかに見えつつも、他方で金融資本の投機的な暴走と信用崩壊を繰り返し経済は混乱し、社会的には内部に想像を絶する「格差」を次第に深刻化させて、技術面では「原子力発電所」の様な…目先のコストだけでの近視眼的な選択を許容したツケとして、場合によっては何万年以上も保管が必要な(実質的に不可能と言える)高レベル放射性廃棄物を産み出し、人間の技術の持つ本質的な限界によって不可避と言える事故に対しては、未だに「安全な」原発などという物が有り得るなどという幻想を抱く様な愚かさを等々から、世界的に「グローバル化」したかに見える【現代文明】の基本となっている、【資本主義】という経済システムそのものに対する【批判】が、ソ連・東欧の崩壊後20年を経た現代において、如何程に有効なものであるのか?…という事について、拙文で私自身の力量も足りないながら、少し考えてみたいと思います。
(この文明を、個人的には利害は有りながらも、それを享受している人間の義務として)
【資本主義】自体に対する「批判」は、その面では最も有名な歴史人・マルクス以前から存在しており(マルクスは彼らを空想的社会主義と批判したのですが)、労働価値説という古典派経済学のスミス・リカードの流れを汲んだマルクス学派によって「搾取」が「剰余価値学説」として定義されると、それを教条(ドグマ)として固定化して(より深く考えて)発展させる事無く、機械的に「希少性」を持つ「資本」という物を国有化しようなどという素朴(シンプル)な発想によって、人間の生産物が「市場」を通じて「商品」となる事についてまで(資源配分の効率性という観点での数理的な考察も抜きに…代替案も無く)それが本来の人間同士の互恵関係の哲学的な「疎外」形態だとされて機械的に否定された結果が、その社会理論・技術評価の不在・未熟に由来して、近代民主主義まで否定するという無茶を要求する事になり、結果として【崩壊】し【失敗】したもので有った事は、歴史を学んだ事のある人であれば(ソ連崩壊後に産まれた若者であっても)、既に明らかになった事であると思われます。
共産党独裁の大陸中国(中華人民共和国)は未だに存続していますが、良識のある誰が見ても明らかな事ですが、アレは既に「社会主義」でも「社会主義を目指す」政権でも何でもなく、資本主義の悪い面(利益の為になら如何なる社会悪もまかり通る)と、民主主義的な個人の諸権利の否定という崩壊した社会主義国家の悪い面だけを、
グロテスクに融合させただけの国家に成り果てています。
つまり世界と歴史を見渡した時に、これまでは【資本主義】に対する本質的部分に関して、有効で成功した「批判」は、現実的には存在して無いというのが、(特に共産党等の関係者には)厳しい様ですが、直視しなければならない現実という事です。
それでも私が、未だに(いつまでかは解りませんが)日本共産党に在籍し、未だに「共産党」という(歴史的には)汚辱にまみれた名前を掲げる事に対しては批判もせず、今回の本記事でも掲題にある【文明批判としての資本主義批判の現代における有効性について】について論じたいと思うのは、やはり「資本主義」が「資本主義」である限り、本質的に持つ【基本矛盾】という物が現実に具体的に危機的なまでに現れて来ている現代社会の行き詰まりに、決して無関心では居られず、人類が現代文明を支える「資本主義」を何らかの形で乗り越えない限り、より高度に発展した文明を後継世代に残す事が、不可能事であると考えるからです。
※一般的に、資本主義の【基本矛盾】とは、社会化された事で飛躍的に発展した「生産力」と、その生産手段(資本)の所有関係が社会化されておらず個人に委ねられている「生産関係」の、その両者の間の【矛盾】だとされています。
前置きが長くなりましたが、上記で述べた…「資本主義」が「資本主義」である限り、本質的に持つ【基本矛盾】については、マルクス以来…共産主義者において教条化されていた「剰余価値学説」を、マルクスの学説から150年もしてから本質的に覆し、資本主義における諸矛盾の源泉にある「搾取」に関して、労働の産む不可視の「価値」では無く、市場により可視化された「価格」をベースに論じる事を含めて、全ての「搾取の定義」が論理的に満たさねば成立しない「公理」を明らかにした書物として…
「吉原直毅(著)「労働搾取の厚生理論序説」について」2008/4/9付け本ブログ記事
…の持つ歴史的な意義について、本ブログでも既に論じた事があります。
※注:上記の書物の数式の読解は大学院レベルの素養を要しますが、丁寧な叙述的な表現もあり、エッセンスは充分に読者に伝わると思います。また…上記の著作の後に「搾取」を単に労働力商品についてだけでなく商品一般の効率的な利用の結果という解釈に陥る「一般的商品搾取定理」については、明らかになった「公理」に従えば成立しない事が、著者自身によって数理的に明らかにされた等で、現在の到達点からすれば少し改定を要する部分は有ります。
しかし、上記の私の書評で書いた最期の部分である…
> これら「労働搾取」に関する議論が資本主義経済に対する規範的特徴付けの為のものであって、その可能性に関して「自由な発展への機会の不平等」という独創的な搾取論展開して終っている
…という到達点から、更に【現在文明】に属する我々が考えなければならないのは、現代の現実的な「資本主義」の諸矛盾…(金融資本の暴走/金融資本での人材を始めとした浪費=ロス/格差/短期的利益優先による技術クライシス等)…が、如何にしたら=如何なる具体的な経済システムに移行したら、根本的に解消されていき、個人の自由な発展の機会の平等が、そのまま社会自体を本当の意味で「豊か」にして、諸個人に「良き生」が実現されるかを、考える事だと思います。
一言で言えば、具体的な【代替案】とは何なのか?…という事に尽きます。
これについては、AM派(アナリティカル・マルキシズム=数理的マルクス)の先達の偉人である、米国のジョン・E・ローマーの著作に、下記の様な本が有ります。
これからの社会主義―市場社会主義の可能性:青木書店 (1997/02)
John E. Roemer (原著), 伊藤 誠 (翻訳)
残念ながら現在では、古書(中古)でしか入手できない様ですが、注釈を含めても殆ど難解な数学などは使わず、有り得る未来の青写真について構想した名著ですから、是非とも在庫が有る内に、手に取って読まれる事をお勧めします。
上記の著書でジョン・E・ローマーが述べた「青写真」とは、現状の資本主義の様に「資本」というものを市場で信用を介して無制限に調達できるという「資本主義」の持つ、投機的性質やら近視眼的性質やら格差固定化性質やらのを変える為に、全市民に均等に配分されたクーポン(換金や交換は不可)=政治における投票権の様なもの…によってしか「資本」を国家から調達できなくするという、大胆な試案でした。(
市場社会主義)
但し、このシステムは「再分配」の機能としては大きくはありません。
というのは、個人が持つクーポン権で投資(投票)された企業の利潤は、現在の株主への配当の様に、投資(投票)されたクーポンの持ち主に配分されますが、その利潤とは全市民に均等に配分されたクーポンの量に規定されますから、広く薄くにしか配分は行われない事になります。
実は、この所有権の「広く薄く均等に」配分したクーポンというのが、この「青写真」の重要な性格であって、そうする事によって投機的性質やら近視眼的性質やら格差固定化性質を無くす事に主眼が有るからです。
(個人に分配される薄く短期的な利益より、公的かつ長期的な利益に従って、投資が為されるインセンティブを与えるという意味で)
※追記(2012/2/12)
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現在、先進・資本主義諸国では、低成長と経済の混乱の中にあります。
しかし、理論的には資本主義の下でも「まだまだ」経済成長は可能です。
ただし、資本主義経済の発展には、常に「イノベーション」が必要だという学説は、現在においても有効であり、その「イノベーション」は、直近の日本経済を見ると、かろうじて情報通信・IT・コンピューター関連に集中して有る事はあるものの、その他と言えば金融の新たな不安定化を齎す、金融商品と投機関係に、優秀な人材の雇用も集中しつつあるのは否定できないでしょう。
こういった(生産に寄与しない)人材の一部でも、新エネルギーの開発(燃料電池やらバイオマス等)やら、食料増産技術やら、医療やら、福祉といった分野に生かされれば、それはそれで産業構造変換=【新たなイノベーション】とも為り得て、新たな雇用と需要を創造できるのですが、いかんせん…資本主義という枠組み自体が【利潤最優先】で回っているので、厚生経済学的に【かくあるべき】といった姿を構想したとしても、政府による利益誘導(開発援助)の力など微々たるもので、経済成長に資する有効な産業構造変換を為しえていません。
これが、資本主義の根本にある【投機的性格】に由来する(それをそのまま批判せずに是認する)、巷での成長限界論の実態だと思います。
私は、この資本主義の投機的性格という【桎梏】=足枷を外してやり、【資本】への【投機】の権利を、(例えばクーポン制にして)均等に【広く薄く】国民に分配された姿(市場社会主義)を構想する事で、短期的な利鞘を稼ぐ事よりも、長期的に社会厚生に資する企業に投資を集中させる(庶民的なインセンティブ=誘引を導入させる)事が可能になり、それによって「イノベーション」は革命的に前進する可能性は有る=経済成長は可能だと、個人的には考えています。
(以上追記)
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それ(資本の所有権)以外は、現状の資本主義と同様に「市場」を前提にしているという点で、本人の責任に帰す事が不可能な(産まれや所属や能力の)格差による不公平は、これだけで無くする事は不可能です。
そういう意味では、この「青写真」に批判を行うのは簡単でしょうが、著者の問題としたのは、そういう批判は幾らでも可能であってすら、現状の「資本主義」の持つ危機的な性格を乗り越える「一歩」を指し示す事にあったのでしょう。
こういった(ローマー流の)市場社会主義という「青写真」に関する議論だけでなく、平行してAM派では、個人の自由な発展の機会の平等の保証としての
「基本所得保障」=ベーシック・インカムに関する議論もあります。これについては本ブログでも(既に2ページ目に下がってますが)…
「子供手当て」を発展的に存続させて「基本所得保証」=ベーシックインカムの社会を!2011/2/19付け本ブログ記事
…でも展開しました。
こうした議論の具体化は、全て「資本主義批判」の意味を持ちます。
(少なくとも従来の「教条的・カルト的」な抽象的批判よりはマシな筈です)
昨日の私の日記(はてなダイヤリー)に、
コメントを寄せて頂いたOさんの言う通り、現代において金融資本等で投機などに費やされている人材が「少しでも救急医療の担い手に廻ったら、新エネルギー開発の従事者になったら、高齢者福祉の担い手に廻ったら、学校教育の担い手に廻ったら、等々、どれだけ社会の状態は改善されるか解りません。」というのは全くの同感です。
誰かが終わらせないと【資本主義】は、今の文明が滅びるまで「投機的性質やら近視眼的性質やら格差固定化性質」を強めていき、いずれ人類全体にとって破滅的な破綻を迎える事になってしまいます。これは断言しても良いぐらいに間違いの無い事に私には思われます。
先人たちが闘い勝ち取って築いてきた文明(人権思想や民主主義を含)を、破滅から守り受け取った時より更に発展させて次世代に渡していくのが、今の我々の世代の義務ではないでしょうか?
煩雑で忙しい仕事に追われる日々の中でも、少しだけでも「文明批判としての資本主義批判」を考える事が、現代における有効であると私が考えるのは、日々のニュースに接して、そこに人類の行き詰まり(閉塞)感が、いやおうでも増しているからでもあります。
これから、そうした文明批判・資本主義批判の精神が、ますます発展して広がっていく事を願って止みません。一人でも多くの人が、そうした議論に加わる事を、私は訴えます。
以下は余談ですが、一方では汚辱に塗れた名でありながら、同時に「資本主義批判」としての「共産」という歴史的な人類の一種の「理想」を負った…その名を引き継ぐ権利は、現在の我が党にはあるのでしょうか?
教条的な政府批判はしても、未来を展望した建設的で相互批判的な活発な議論の保証(民主集中制の破棄)や、その為の党制度改革…党代表の公選制…などには目を背けていては、現代社会からは見放されるばかりであり、理想としての「共産」を名乗る資格は無いと言えます。(汚辱としては有っても)
その為には、死んだドグマ(教条)の葬送をせねばならぬなら、危機的な今の時代を前にして、何を躊躇う事があるでしょう。(笑)
※追記:
死んだドグマでは無い、AM派による生きた議論として…
資本主義分析の基礎理論研究の現状及び『新しい福祉社会』モデルの探求
吉原直毅
一橋大学経済研究所
初稿2011 年10 月1 日; 現稿2011 年10 月12 日
…などが、参考になるでしょう。(党中央は無視を決め込んでますが…苦笑)
※2012/1/18-19:40追記:
尚、ここで言う「死んだドグマ」とは、具体的には、日本共産党が掲げる「科学的社会主義」というものが、AM(数理的マルクス)派であるジョン・E・ローマーや吉原直毅氏などとは異なり、全く発展していない=死んでいるという意味でも、研究段階であれ将来像を具体化しようとしない=抽象的という意味でも、教条=ドグマとして、研究ではなく「信仰」の対象になっている…という事が言いたかったのです。
何故そうなるか?…というと、行動の一致という良い意味だけでなく、意見の違いだけでも党内に「派閥」が禁止されていれば、(活発な議論で機関紙の紙面が賑わう事も無く)理論や方針は「教条化」せざるを得ませんし、党首だけでも党員による直接選挙すら行なわれていない現状では、それに対する「反省」も組織として機能していないからです。
つまり「科学的」と言いながら、実際は「カルト的」になってしまっているという意味で、150年前のマルクスから一歩も前進してないどころか、レーニンによって歪められた前衛意識で大衆を「導く」などという上から目線の象徴である「民主集中制」などで退歩さえしている状態の、今の党の「科学的社会主義」とは、死んでいる=発展可能性が無く、ドグマ=抽象的に留まり具体的な研究が為されない…と(私自身にとっても残念ながら)言わざるを得ないのです。
具体例を挙げれば、従来の「投下労働価値説=剰余価値学説」と、如何なる理論的な資本主義経済モデルの下でも否定されない「搾取の定義(価格依存)」とは、トレード・オフの関係にある事が既に数理マルクス経済学では明らかにされているのに、未だに不破氏の「古典教室」を経文解釈みたいに繰り返されている様などは、どこが「科学的」なのか?と疑う要素の一つでもあります。

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