伊賀篤のブログ

(ペンネーム=勉強不足のJCP党員、便所の住人)開設:2004/8/20〜

 
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投稿者:伊賀篤
●サツーマ・ケルンポア・チョーシューイリイッチさん(長い名前ですね…笑)。初めまして。今後とも、よろしくお願い致します。
キンピーさんの御知り合いなんですね…
投稿者:サツーマ・ケルンポア・チョーシューイリイッチ
伊賀さま、はじめまして。生の党員意見を、驚きとともに、大変興味深く拝見させていただきました。

きんぴぃどん、おひさしぶりでございます。
投稿者:伊賀篤
●訂正A

これは、資本によるイデオロギー攻撃に負けたという面もありますが、私が学生時代に感じていたのは…自分達以外を「近経」などと見下している内に、他の学派は、ゲーム理論や、アローに始まる社会選択論などで進歩してきたのに、マルクス陣営は数理的に置塩信雄や森嶋通夫の活躍した1970年代をピークにして、新たな学術的な発見や研究成果が途絶えてきて、優秀な後継者も集まらなくなった自己責任もある様に感じてます。

そもそもマル経は、もっと他学派(本当の現代経済学)にも【謙虚に】学び、ゲーム理論や市場分析等の数学を学び、彼らを凌駕できる程の数理的理論構成が出来る人材が増えなければ、この学派の再生は無いでしょう。

これはTAMO2さんも同意見でした。
投稿者:伊賀篤
●訂正@

キンピーさん

> まず、近代経済学を近経と呼ぶのは略称であって差別ではない

キンピーさんは御若いので、1980年代より以前の学会や大学の雰囲気を御存知無くても当然でしょうが、マルクス経済学の人が他の色々な学派を一括して「近代経済学」と呼ぶのは、当時まではマルクス経済学者が大学等に大勢居て、(暗に)対義語として自分達こそ【現代経済学】だという自負があったから、そういう失礼な(反共というレッテルに近い)まとめ方をしていただけであり、もう今ではマルクス経済学の方が(衰退して)教授数も講座数も圧倒的に少なくなりましたので、あまり使われません。その言葉を使う学者自体が減りました。

今、確実に言える事は、もはや「近経」などという言葉は、マル経の内輪だけの中でしか、通用しない言葉だという事です。

今でもゴリゴリに、そういう言葉を使いそうな学者も居る事は居ますが、あくまで【一般的に】現代経済学の主要な潮流(学派)としては…

マクロ経済学(ケインズを始祖とし新自由主義も産んだ学派)

ミクロ経済学(レオン・ワルラスが19世紀に創始した一般均衡理論が有名な市場分析を主とする学派)

…であり、更に、これらに含まれる細かな分野として、計量経済学やら、厚生経済学やら…等々がありますが、マルクス経済学(派)の占める地位は、それらより【あくまで一般的には】学術的な先端理論を持たない…逆に古典派扱いされるのが常です。

掲載されるのにレフリー制度がある国際トップジャーナル(学会誌)のベスト30に、常に…マル経の人から見た「近経」の人達からも無視できないだけの業績(レベル)を挙げて論文の掲載を勝ち取っている日本人は、残念ながら決して多くは無いらしいというのが、偽らざるマル経の現状です。

勿論、その数は少ないながら、有志の人達は、マル経の学会の再生のために、奮起しておられる事は言うまでもありませんが。

各大学では、次々にマル経はポストを失ってきましたが、今後は…これら有志の人々の頑張り次第でしょう。
投稿者:キンピー
伊賀さん

終了を宣言されたのに申し訳ありませんが2つほど書かせてください。
まず、近代経済学を近経と呼ぶのは略称であって差別ではないと思いますけど。
マルクス経済学だってマル経と略したりしますし。
それとマル経やマルクスをかじった人からすれば、資本主義で動く資本の多くが擬制資本であることが前提なのですから、警鐘を鳴らすもなにもバブルはしぼむのが常識でしょう。
うちの父親はただの郵便屋でしたが、資本の運動法則はそのようなものであるとバブル期に教えられました。
ただベルリンの壁崩壊と日本のバブル期が重なっていますので、当時の日本社会全体としてマルクス及びマル経を過去のものとして抹殺(もちろん意識の上で)していたように思いますが。
投稿者:伊賀篤
●キンピーさん

> 近経の合成の誤謬とは実践の中で恐慌を回避できなかったという意味です。

そういう意味であれば、確かに「近経」…私はマル経陣営が…むしろ今の主流派の現代経済学を「近経」と呼ぶプライドなのか知らないけど傍からは滑稽でしかない差別的意図には学生時代に辟易としましたが…にも、実践的な瑕疵があるのは事実であり、それは否定しません。
(竹中平蔵とかね)

でもバブル全盛期に、バブルは必ず弾けると警鐘を鳴らしていた「理性」があった「近経」の方々もみえましたし、むしろマル経などはマクロ経済政策に関しては、殆ど沈黙を守って(何も言えずに)居たのだから、同罪だとは思っています。

そういう意味では、警鐘を鳴らしていた人の理性の発揮を、公の議論(対話)の中で活かし、政策に反映できなかったのは、その人の「生身の人間の感覚・知覚」の問題というのも勿論ですが正しいのですが、同時にやはり人間という種全体の「理性」の(現時点での)限界だと思うような気もしますが…

勿論、私は、理性絶対主義でも、科学万能主義でも無く、個人的にはクリスチャンでもありますし、そういった「人間の感性・知覚」…(特に政治的な嗅覚みたいなモノ)は、とりわけ大事だとは思っています。

まぁ「現象学的反省」は、私の日常でも盛んに直面している問題なので、あまり人の事は言えませんので(特に人間関係の空気を読む事は全く出来ない)…

> 科学も哲学も、時には宗教も大事です。

…という言葉に、特に宗教人(カソリックとプロテスタントで2回も洗礼を受けた)の一人として、同意して、終わりたいと思います。(笑)
投稿者:キンピー
伊賀さん

合成の誤謬とは実践の中で現れることですから、近経の合成の誤謬とは実践の中で恐慌を回避できなかったという意味です。
形式理論の中で誤謬に気づくのであれば合成の誤謬は回避できますが、そのヒントは形式的でない生身の人間の感覚・知覚によってもたらされますので、形式的な対話に限定されない方がよろしいかと存じます。
フッサールをお読みになっているということで、釈迦に説法だとは思いますが、これは「現象学的反省」というやつですね。
科学も哲学も、時には宗教も大事です。
投稿者:伊賀篤
●続きです。

> 数理的な近経学が厳密になるあまりことごとく合成の誤謬

これは何も「合成の誤謬」の様な失敗だけでなく、経済学の一分野である厚生経済学などでは、非厚生主義によるロールズやアマルティア・セン等の規範理論を取り入れた「厚生」や公正の考え方や、それ以外の分野における…単にパレート効率的でさえあれば良いという新自由主義を始めとした経済学の考え方の対立としても現れています。

但し、ここでも何らかの規範理論が多くの他者に訴求力を持つ為には、ロールズの正義論の様に(自然言語であっても)厳密な形式論理を踏んだ、規範哲学でなければ、何かを産み出したり応用したり出来ないという意味で、形式論理は必要条件であるという事です。

> 伊賀さんは哲学や思弁を意識的に排しているようですので、少々危惧を覚えます。

これは誤解です。裏の日記を読んで貰えれば解りますが、普段の私は極めて思弁的であって、実践的な形式論理だけで出来ている人間ではありません。(苦笑)
ただ、その適用領域の分別については、確かに過敏かもしれませんが…

> 科学と哲学、これは切り離せるものではありませんよ。

切り離せはしませんが、明らかに適用領域は異なります。
実際の科学の進歩の「現場」では、形式論理と、それを駆使した議論(対話)が、必要充分な条件となりますが、その「現場」を担う人間の内面においては何らかの世界観としての哲学が必要となるでしょう。
中世ヨーロッパでは宗教が哲学や科学を支配していましたが、その愚が繰り返されているのが共産党だという危機意識を表明しているのみです。

まぁ、関係ありませんが、私は本当は哲学者になりたかったのです。(笑)
投稿者:伊賀篤
●キンピーさん。お返事ありがとう。

> 論理的思考が数式になりがちなのは思考する者が言語に厳密になろうとするからであって、そのことが論の優劣を決めるのではありません(ちなみにフッサールも数学者でしたね)。

もちろん、その通りです。自然言語でも厳密な形式に則って議論する事が、対話においても誤解を避けてより有益な結論が得られるというだけで、形式が内容を担保するモノではありません。
ただ、厳密に形式を踏んだ思考をしないと、それは他者に正確に伝わらないだけでなく、何かを解き明かす事が出来ないというだけで、つまり必要条件ではあっても充分条件ではありません。
(フッサールは厳密な言葉遣いをしていましたね)

> また哲学について誤解があるようですが、弁証法が何かを解決するわけではなく思考の助けとなるだけで、伊賀さんの弁証法は後付でしかないという指摘は、そのまま弁証法の有効性を示しています。

誤解がある様ですが、私も「弁証法」そのものを【全否定】はしていません。世界観を表す一つの考え方として、私自身も自分自身の過去を振り返ったりする時などに、宗教以上に多用しています。
「思考の助け」という意味では、実際に形式論理を語る「以前」のインスピレーションの段階では、助けられていますよ。(それをそのままでは語らないだけで…苦笑)

> 最後に科学史は仰るとおりですが、進歩の中にやはりおさえて欲しいのはその基礎となる哲学的思考です。ニュートンその人も科学ではなく哲学を思考したのですから、哲学と科学は対立するものではない

これも仰る事は解ります。人は誰でも、客観化(共同主観化)された科学を語る前に、その内面においては何等かの哲学を基に思考し発想しているののですから…
ただ、私はそれ(適応領域)を混同して、哲学が思考の助け以上になって、人によって異なって当然の世界観における他者への支配の道具にされた、マルクス主義陣営の「科学観」への警戒を表明しているに過ぎません。
(続く)
投稿者:キンピー
伊賀さん

論理的思考が数式になりがちなのは思考する者が言語に厳密になろうとするからであって、そのことが論の優劣を決めるのではありません(ちなみにフッサールも数学者でしたね)。
また哲学について誤解があるようですが、弁証法が何かを解決するわけではなく思考の助けとなるだけで、伊賀さんの弁証法は後付でしかないという指摘は、そのまま弁証法の有効性を示しています。
最後に科学史は仰るとおりですが、進歩の中にやはりおさえて欲しいのはその基礎となる哲学的思考です。ニュートンその人も科学ではなく哲学を思考したのですから、哲学と科学は対立するものではないし、数理的な近経学が厳密になるあまりことごとく合成の誤謬をやらかした歴史を見ると、やはり下地になる哲学から見ていかなければならないのではないでしょうか。
もちろん数理マルクス経済学が登場したことは他の近代経済学と共通言語を持つという意味において歓迎すべきことですが、伊賀さんは哲学や思弁を意識的に排しているようですので、少々危惧を覚えます。
科学と哲学、これは切り離せるものではありませんよ。
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