伊賀篤のブログ

(ペンネーム=勉強不足のJCP党員、便所の住人)開設:2004/8/20〜

 
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投稿者:伊賀篤
●キンピーさんへC

最後です。

現状の党中央はかくのごとき状況ですから、キンピーさんの引用された、古典的な観念論批判から「ありのままに見る」にワープして(過程として必要な)…

> そこには共同主観はおろか対話も存在も必要としないのです。

…とならざるを得ないのは、【そもそも】が、現代の学問レベルで「対話」できるだけの理論的な探求(マクロ経済学やらミクロ経済学やら政治学やら社会学やら)を、全く勉強を出来ていないからこそ、恐らくは【したくても出来ない】というのが実際の所でしょう。

そういう党中央に疑問も抱かない多くの党員も、そんなメッキ(確信)などは議論(対話)をすれば、すぐに剥がれてしまいますから、今や単なる思弁以外には何の根拠も無い「弁証法的な止揚=アウフヘーベン」の結果だと言う現綱領や現規約を「唯一の真理」として掲げ続けなければ、自己を正当化も出来ないというのが実態であり、党内に派閥を作る事で、自分から枠を超えようと「対話」する事への拒絶と、異論の党内への封殺か?党外への放逐か?という、党内でしか通用しない唯一無二の存在への固執となって、括弧つきの「真理」の独占という、外部からは独善としか映らない態度になるのでしょう…

そして、既定の枠組みを超えた(囚われない)普通の「対話」ができない事で、党の大衆との乖離は、決定的となっていく…

この状態を表して「古典力学」の限界というのであれば、まぁその比喩は…あながち…19世紀末期的な…諸矛盾に直面しながら既存の枠組みを超えられない(放棄できない)という意味では間違ってはいませんが、むしろ古典力学の成立当時にも活きていた…常に既存の枠組みを超えようとして努力し、形式論理(数学)と議論(対話)を重視したという意味での「科学性」は持っていた、アイザック・ニュートン氏等の先人には、少々…失礼に当ろうかと言うものです…(苦笑)
投稿者:伊賀篤
●キンピーさんへB

何故そう言えるのかを具体的に挙げれば、例えば…マルクス主義と言おうが「科学的」社会主義と言おうが、この社会理論で最も基本的な言葉である「搾取」の定義ですら、それを経済学という現代においては最も数理的(数学的)なツールを用いなければ、誰にも相手にされない学問領域においてまで、既に…投下労働価値説(市場価格は投下労働によって規定される=価値→価格の図式)は、数理的に成立しない事すら、無視している事にも現れています。

これについては、拙ブログの記事…

吉原直毅(著)「労働搾取の厚生理論序説」について
http://blue.ap.teacup.com/nozomi/88.html

…でも触れましたが、こういう(搾取の定義という)基本中の基本ですら、未だに不破氏の古典教室では、そこには既に世界観すら変える発展が有った事を無視をして、資本論レベルに留まったキンピーさん風に言うならば「古典力学」を教えていたりします。

さらに結党の目標である社会主義についても、具体的な現代経済社会の現実から紐解いて分析した結果としての「仮説」としてすら「青写真」を提示する事を拒み、専ら弁証法的必然(=生産力と生産関係の基本矛盾の解決)としか言えない。

そういう知的な怠慢は、選挙制度改革についての具体案一つですら未だに具体化できない所にまで堕落をしています。
また今迄の様な生活保護では無く、これからはベーシックインカム(または負の所得税)だとすら言えない。
脱・原発についても、具体的なロードマップも提示していないまま…

つまり、新鮮味など、全く無い、古典的なスローガン・レベルの焼き直しに終始していて、理論的な「発展」が全く無い。

これは、発展させる能力(自分で考える力)そのもの欠如というか、訓練不足の積み重なった結果です。

これこそが、Aで述べた科学史における…

> 常に実践的であったのは、
> @:厳密な形式論理(数学には限りませんが)と
> A:それを使った議論(一般に対話と呼ばれるものにも敷衍できる)でありました。

…の欠如の【結果】です。
(続く)
投稿者:伊賀篤
●キンピーさんへA

ただ言える事は、これらは全て「数学」という共通した形式論理学の言語によって表現されている事であり、それは…物理数学的な仮説⇔論争(形式論理による対話)⇔実験的な事実…という具体的な手順により発展してきたモノであり、そこでは弁証法などは全く媒介していません。

つまり(少なくとも物理学における)世界観を、ニュートン時代の「古典力学」の桎梏(矛盾)から、それを解決すると同時に新たな矛盾(桎梏)を抱える現代物理学の世界観に発展させたのは、常に具体的な形式論理(数学)と、それを使った論争(対話)だった事に為ります。

もちろん私も、思想面における、マッハの功績や、フッサールの現象学の功績を認めない訳ではありませんが(フッサールは高校時代に結構読みました)、少なくとも物理学における歴史の事実としては、「科学観」といった思想の領域では無く、そのものである物理学という「科学」の領域における進歩や発展とは、特定の思想によって支えられたモノでは無く、純粋な形式論理学的である数学に依拠した議論(対話)と実践(実験)によってきたのが、よりリアルな表現であろうかと(私は)思っています。

それ(歴史)を、後追いで俯瞰すると、その過程が一見して「弁証法的」に見えるだけであり、煎じ詰めれば「弁証法」は世界観ではあっても、実践的な科学哲学でも無ければ、そこから新しく何かを生み出す(論証できる)ものでもありません。

常に実践的であったのは、
@:厳密な形式論理(数学には限りませんが)と
A:それを使った議論(一般に対話と呼ばれるものにも敷衍できる)でありました。

私は、これらの歴史的事実(科学観の発展過程を支えたもの)から、それを敷衍すれば、日本共産党のイデオロギーにおいては、上記の@もAも欠けているというのが実感であり、それを「弁証法」なる、単なる世界観で「決定論」を導いて、誤魔化しているに過ぎないと考えています。
(続く)
投稿者:伊賀篤
●キンピーさんへ@

私自身の専攻(静岡大学理学部物理学科)から見ると、若干ですが…キンピーさんの言う「古典力学」の定義が…あいまいな部分がありますが、大体において言わんとする事は解ります。

ただ一般に物理学の世界で古典力学というのは、狭義にはニュートン力学の事を指し、それが19世紀末にマクスウェルの構築した電磁気学と、両立しないという矛盾を抱えていました。
それが20世紀の初頭に、従来の「絶対時間」を前提にしたガリレオ(座標)変換に対して、時間を異なる座標系において「相対的」であるとしたローレンツ(座標)変換を導入する事で、アインシュタインが相対性理論(1905年=特殊相対性理論+1916年=一般相対性理論)によって、マクロ的な領域での古典力学と電磁気学の矛盾を解決した(狭義の「古典力学」から決別した)とされます。

少し遅れて1920年代には、ニュートン力学では初期値として「位置と運動量」を同時に決められるという前提で成り立っていたものが、実験的な事実として光などは波動性と粒子性を同時に持つ事が明らかになっており、そこでも「(ニュートン)古典力学」が事象を説明できない矛盾を抱えていたものが、1925年にはハイゼンベルグによって不確定原理が提唱され、翌1926年にはシュレーディンガーによって波動力学の表現(波動関数)によって、現代にも通じる(ミクロ的な世界を表現する)量子力学の基礎が築かれました。

つまり(ガリレオ〜ニュートンの)古典力学の克服というのは、具体的には全く異なる分野(マクロ的領域=相対性理論、ミクロ的領域=量子力学)において、ほぼ同時期に為されたものであり、それはそれで「新しい矛盾」を産みました。
(例えば…有名なパラドックス「シュレーディンガーの猫」…箱を開けるまでは生きている状態と死んでいる状態が決定しない…非現実的な解釈)

この論争は現在でも終わっておらず、大学の物理学でデフォルトとして教えられる「コペンハーゲン解釈」ですら、別に(他の解釈を退けられる)実験的に実証された決定的な解釈という訳でもありません。

また、マクロ領域での相対性理論と、ミクロ領域での量子力学は、それぞれが実験的に正しさが証明されていますが、双方は相矛盾する性格も持っていて、それらを統一場とて表現する「大統一理論」と呼ばれるものは、未だに【仮説】としてすら完成はしていません。
(続く)
投稿者:キンピー
(2/2)

一方、日本共産党を含め、マルクスレーニン主義政党の領袖や幹部たちは、決定論的な古典力学に執着します。
そして「科学」を振りかざして指導を繰り返します。
弁証法自体は思考方法であって、それはそれで有効であると思いますが、決定論的な科学観でアウフヘーベンを繰り返せば、それは真理の体現者・無謬の神になるということであり大変危険です。
だいいち古典力学に固執する態度は、科学とはいえませんし。

現在の日本共産党の世界観・科学観は実社会に対して大きく遅れをとっていながら、理論的支柱である不破氏においても哲学・科学進歩の歴史と社会主義の関係性を説明できず誤魔化し続けています。
彼の説明は観念論に対して古典力学の優位性を延々と説明した後、物理学におけるマッハの功績を無視し、いきなり「ありのままを見る」にワープするのですが、そこには共同主観はおろか対話も存在も必要としないのです。
これでは100年前に科学が民衆から遊離していったように、共産党が民衆から遊離していくのも無理もありません。
共産党に好意的な支持者においても「良いこと言ってんだけど、なんか違う」という原因はここにあります(苦笑
投稿者:キンピー
(1/2)

真理の独占がなぜ起こるのか。
問題はそこなんすよ。
日本のノーベル物理学賞受賞者の態度はおし並べて謙虚であり、党幹部のそれとは違います。
科学は論理的に積み上げられていくものであり、その手順において形式的にならざるをえませんが、それだけでは古典力学からの発展は無かったでしょう。
実際、100年ほど前には決定論的な古典力学だけが発展していき、世界を「解明」していく一方で、我々が見聞きし触れることの実世界から遊離し、科学の危機を迎えました。
実際、世界を説明できていませんでしたし。
そこに一石を投じたのはマッハでありフッサールです。
マッハは知覚によって遊離した科学世界を我々に引き戻し、フッサールはその関係性を明らかにしようとし現代の科学を含めたあらゆる学問の基礎を作り直しました。
伊賀さんは「対話」を加えることによって乗り越えようとされていますが(もちろん対話は不可欠です)、対話を含め知覚されるものを総動員し共同主観を作り上げ、それをベースに物事を考えていく。こういった作業が必要なのだろうと思います。
古典力学では説明できなかった量子の運動法則の解明も、共同主観をとおして少しずつ明らかになったのですから、名だたる物理学者が謙虚であるのも当然です(謙虚にならざるをえない)。
投稿者:伊賀篤
●キンピーさん。広松氏の文章の紹介ありがとうございます。

> 党幹部と下部党員の関係性が問題なのではなく、党および党員と民衆の関係性が問題なのだろうと思います

そうですね。民衆を「われわれ」という主体では無く、宣伝したり扇動(先導)する客体として見ている事は、民主集中制における党中央(党主流分派)による「真理」の独占の構造と重なっている事です。

それは下部の党員にまで浸透していて、成功できない時に自分達の掲げる政策の科学性への自省ではなく、客体としての周囲への「働きかけ」の努力不足で片づけられるという、狭い主体範囲でのムラ意識が形成されています。

こうした、対等平等な対話を通じた仲間(われわれ)として民衆の声を聞く事を疎外している哲学上の道具が、ソクラテス的な対話法から疎外された、真理の独占を合理化している弁証法的な考え方だと(私は)思いますが、何にせよ現在の意識構造を変革する為には、規約の改正は不可避だと考えます。
(無論それで終わりではありません…むしろ始まりとして)
投稿者:キンピー
広松の原文見つけました。
何かの足しになるかと存じますので書かせていただきます。
前衛―大衆という党の描く理想像が「前衛」という言葉は無くなっても存在するのは民主団体の引き回し(民主団体および民主団体の構成員は党の駒ではない!)が現時点においても行われていることを見れば議論の余地の無いことでしょう。
そしてそのことが足かせとなり、党の存亡をも危うくしていることも。

ではまず広松による民主集中制への問題意識です。
「用具としての大衆、それは前衛にとって一つの操作対象となる。この主体―客体の両義性は前衛集団内部の指導―被指導の関係が人格的に固定化されるとき、全く同一の理論構造によって、下部党員大衆を操作の対象と化してしまう。ここにおいて資本主義的生産の体系にみられる管理―操縦のヒエラルヒーと同一構造の官僚主義的管理操作体系が、前衛と大衆との関係はおろか前衛党の内部にまで成立することになる」
つまり真理の体現者である党(および党の指導者)と大衆や大衆党員は指導―被指導の関係で固定化され、党と大衆の、あるいは党指導者と党員の協同作業の機会を失わせており、広松の言葉でいうと協働主観的関係(現象学的な意味でしょう)が展開できなくなっている、としています。

そしてそこから脱却するには前衛と大衆、つまり党と民衆の関係を清算し、協働によって「主体“われわれ”」ならなければならないと。
現代でいえばマルチチュードです。
党や個々の党員と民衆の協働が可能な組織内規律とは何か。
党幹部と下部党員の関係性が問題なのではなく、党および党員と民衆の関係性が問題なのだろうと思います。
投稿者:伊賀篤
●これは失礼しました。

> 戻りたくなるもなにも、私に下された除名処分は党機関の規律違反であり、処分の撤回を求めていますが(笑

もちろん、その闘いに敬意と連帯をします。

…と言いつつも、私自身も(今は首の皮で繋がっていますが)何時まで党籍を維持できるか解りませんが(苦笑)、党員を名乗る限りは党を何とかしなくては…とは思って本ブログみたいなのをやってますが、元々が私は国忠さんなどともオフで意気投合した「マタ〜リ」気質なので、半分は愛想の尽きた関係でも成り行きに任せているに過ぎないのかもしれないので、思わずキンピーさんにも「戻りたくなるような党」などと言う言葉が出てしまったのかもしれません。(苦笑)

> もちろん戻ったら官僚どもをパンパンにシバキあげるのはいうまでもありませんが。

頼もしい…私に人事権が仮に有ったら、キンピーさんを党中央常任幹部に大抜擢して、楽をしてても選挙に勝てる、より左翼的な党に所属している愉悦に浸れるのに…(笑)

まあ、頑張りましょう。
投稿者:キンピー
>キンピーさんが戻りたくなるような党になれる様に

ええ?!
戻りたくなるもなにも、私に下された除名処分は党機関の規律違反であり、処分の撤回を求めていますが(笑
もちろん戻ったら官僚どもをパンパンにシバキあげるのはいうまでもありませんが。
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