伊賀篤のブログ

(ペンネーム=勉強不足のJCP党員、便所の住人)開設:2004/8/20〜

 
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投稿者:ペリフェラル
>ちなみに、私の「裏」の昨日付けの日記にも書きましたが、私は某所で「死ねばよいのに」とまで言われましたが、そういう相手であっても、私は対話を拒否してはいません。

そちらの日記とリンク先は、はじめて拝見しましたが某所の言葉遣いにはげんなりさせられました。「上司-部下」の関係性では一方的な罵倒などは残念ながら残っておりますが、実社会の現場において、対等な他人同士の関係であのような態度と語り口での会話など滅多に見られないと思います。常にかしこまっていなければならないということではないですが、限度がありますよ。
しかし、伊賀さんからすれば「見当違いの」いちゃもんをつけてるような私も、某所人と似たような迷惑者かもしれませんね(苦笑)。

>日本共産党は「脱北者」への謝罪を!

議論を拝読しました。北朝鮮人権侵害問題対処法案に反対ではありません。しかし、Oさんやハムハムさんのご意見も一理あると思いました。日本共産党に思い入れがないということもあるのでしょうが、自公の思惑にきな臭い点があるなら、反対する政党が一つくらいあってもいいのかなという気もしました。その法案なしには脱北者への処遇が一切進まないというなら別ですけれど。

さて、次ですがご回答ありがとうございました。

>私であれば「戦争反対」を掲げざるを得ないでしょう。出来ればインド型の「非暴力・非服従」で(より多くの)時間を要してでも、命を粗末にしない遣り方で、命よりは価値の低い「国家」という【道具】の「独立」は勝ち取る事も出来たし…時代により別の条件も産まれる可能性もあったかもと…

なるほど、なるほど。一貫なさっている。私も若いころは似たような考えでして、なおかつ政治過程に盛り込むべきだと考えていました。そのために、政策的には非武装中立が一番近いだろうということで、社会党の支持者ではありませんがそこは評価していました。ただし、誰だったか忘れましたが、単なる非武装中立では駄目で「非武装永世中立」でいくべきだという主張があって、それに共鳴しておりました。
しかし後々になって、日本人全員に法令で「非暴力・非服従で立ち向かえ」と拘束することはできないと思い直し政治的主張としては取り下げましたが、個人的には今でも「非暴力・非服従」でいきたいとは思っているのです。
投稿者:ペリフェラル
もちろん、アメリカが戦争をさっさとやめてもらうのが一番良かったわけですが、当時自分がベトナムに生まれていたら武器を取っていただろうか…考えちゃいますね。

幸いにも、戦争状態における「非暴力・非服従」は、長らく日本が侵略を受けていないので発揮する場もなくお蔵入りな訳です。ただ、(とりあえず非服従は除くとして)非暴力をお題目として唱えるだけではなく、できるだけ非暴力的な生き方をしていきたいとも考えています。それを論ずると長くなりますので、トピック的に挙げますと。
1 怒りや憎悪、軽蔑感や侮蔑感、復讐心といった「負の感情」をどう適切にコントロールしていくか。
2 肉体的な暴力だけでなく、「言葉の暴力」をどう縮減・低減していくか。

これらの日々実践ということですかね(まだまだですが)。

>現行の日本での様に、子供が体外に出ても自立して生存可能な月齢を持って、命の始まりとして、それ以前においては、経済的な事情も含めて母性保護を優先するというのは、止むを得ない【線引き】ではないかと、私は個人的には考えています。

なるほど。私も個人的に同感です。また、日本においてはこの線での社会的合意を維持し、リプロダクティブ・ライツに沿った施策を行っていくのがベターであろうかと思います。

>あくまで現在においては、これが【人命の至高性】を守る限界でしょう。

おっしゃるように限界があります。他の面でも限界があります。お聞きするのを忘れましたが尊厳死・安楽死もそうです。尊厳死が簡単には認められてこなかったのは、医療の世界ではとにかく「人命最優先=人命の至高性」だったからでしょう。とにかく「植物人間」になろうが人命には変わりないんだから生かし続けろ…という思想ですね。そこにノーが突きつけられたわけです。
このように、私はいくつも限界があるものに対して至高性を付与するのには疑問を持ちます。「至高なる○○」とは他に「比べられるものがない」存在だからです。だから私は、「人命は最大限(限界のある中での最大)尊重されるべきだ」という表現なら賛成します。が、「至高」という概念は、文学的(宗教的?)表現なら別ですが、哲学的あるいは社会的なタームとしてはそう簡単に使えないのではないかと思っています。
投稿者:伊賀篤
●ペリフェラルさんへC

> ベトナム戦争に対するご見解

歴史の評価を、後の世代が、後の世代の条件で=前の時代の置かれた条件と異なるのを度外視し「評価」する事が「非生産的」である事は、きっと貴兄も理解した上での御質問だという事は、あくまで前提の上で御答えします。

私見ですが、いくら「民族自決」という大義があったとしても、米帝と闘って戦死しろとは、私は自分の子供には言えません。自分の子供にも言えない事を、他者に強いる事は出来る道理がありませんから、私であれば「戦争反対」を掲げざるを得ないでしょう。出来ればインド型の「非暴力・非服従」で(より多くの)時間を要してでも、命を粗末にしない遣り方で、命よりは価値の低い「国家」という【道具】の「独立」は勝ち取る事も出来たし…時代により別の条件も産まれる可能性もあったかもと…

無論、私はベトナム人に指図したり批判したり、独立戦争を勝ち抜いたベトナム人の誇りを、私は否定したい訳はありません。それは最初に述べた「非生産的」です。

> 妊娠中絶について

私自身は、自分の種での子供を中絶させた経験は有りませんが、私の(女性の)友人の内の何人かは、それ(中絶)を選択せざるを得ない状況下で妊娠してしまい、私が相談に乗った事は有ります。

その経験を踏まえて回答すれば、命の始まりを何処の時点に置くのか?…という難しい問題はありますが、現行の日本での様に、子供が体外に出ても自立して生存可能な月齢を持って、命の始まりとして、それ以前においては、経済的な事情も含めて母性保護を優先するというのは、止むを得ない【線引き】ではないかと、私は個人的には考えています。
不注意な男性の為に、母性を犠牲にして良いという「法理」もまた有り得ないからです。
こういう考え方は、私と同じクリスチャンでも、プロテスタントの福音派やら、ローマ・カソリックを除けば、一般的だと思います。
但し、将来において、例えば人工子宮などでも出来て移植が可能なら、別の可能性も産まれてくるかもしれませんが、あくまで現在においては、これが【人命の至高性】を守る限界でしょう。

同じ事は、9条を維持し自衛隊を違憲としつつも、その存在と武力の限定的行使を、あくまで【緊急避難】とすべきとの考えにも通じます。

私は、未だ歴史的限界が有る事は、あくまで承知の上で本文も書いたつもりです。
投稿者:伊賀篤
●ペリフェラルさんへB

> 平行線が続きそうならこの件については終わりにしましょう。

それなら、それでも結構ですが、これまで書いた理由により、私は自己の論述には、どこにも「矛盾」は感じてはいませんよ。(苦笑)

相手に…「貴方の持っている【道具】は(国民にとって)危険な【凶器】になってますから、作り変えられたら如何ですか?」…と提案しても、一般的にも関係は損なわれませんしね。

北朝鮮についても、平壌宣言に立ち戻り、(拉致問題が解決していなくても)必要な賠償やら援助は(一方的であれ)済ませて、【相手が如何なる国家だろうと】国交関係ぐらいは、最低限でも結ぶべきでしょうね。

日本共産党が現在、こうした(人権とういう観点からの)対北・経済援助の提言や、同時に左翼として行なうべき【批判】をしていない事を、私は残念に思います。

日本共産党は「脱北者」への謝罪を!
http://blue.ap.teacup.com/nozomi/129.html

> 実際、反核・反原発、9条護憲、格差是正などで一致するところはあっても、私が共産主義・社会主義者ではないということに於いては既にそうであると言えますが。

そうですね。何も「左翼」とは、「共産主義・社会主義者」などに限定される概念では無いのは、本文で書いた通りです。

まぁ仮に私と貴兄が「論敵」になっても、「対話」を通じて【一致点】は築けますよ…(笑)

むしろ、これまでの「共産主義・社会主義者」を自称していた、国家だけでなく、個人においても、人権への軽視が、あらわになってきた歴史を見れば、私(=共産主義者)が、左翼を名乗る事の方が、人によっては「おこがましい」と映るかもしれないとは、自覚しています。(苦笑)

最後の質問への答えは長くなりそうですので、次にまわします。(苦笑)
投稿者:伊賀篤
●ペリフェラルさんへA

> しかし、このブログ上では、他国政府の存在そのものを否定する発言をしておられるわけです。そして、このブログは世界中に公開されているのです。相手に筒抜けになっている。

これを私は、悪い事だとは思いません。
何故ならば、従来は「左翼」といえば社会主義陣営(国家)を擁護するものだと言う甘えた考え方は、何処にも通用する「道理」が無いという事を、一左翼的な市民の声として伝える事が出来るならば、むしろそれは幸運な事だとすら考えるからです。

まぁ、私が仮に「外交官」になったら…という仮定の話は、別にしても良いのですが、その時は個人としての考えと、公人としての言動は、区別をする必要に迫られるでしょうが、一左翼としての自由な個人が自己の国家という「道具」についての考え方を開陳するのにおいては、むしろ率直さという美徳の方が、ダイレクトに相手(個人)の心には届くでしょう。

> 極端な例ですが、公開日記で「こんな奴嫌いだ。死ねばいい」と書いておいて、対面の席では「友好、友好」といっても信用はされないでしょう。

先にも書きましたが、私は実際に「死ねばいい」と書かれていますが、そんな相手であっても、あいさつ等の儀礼を守って「対話」に来てくれるのであれば、歓迎こそすれ、拒みはしません。

それにこの「極端な例」では、また人間の作った「道具」としての国家の疎外化した形態としての「凶器」を捨てるか改善しろと言う事と、生きた相手自体(人間)の否定とは、またしても合致しておらず、例としては不適切と申し上げるしかありません。
投稿者:伊賀篤
●ペリフェラルさんへ@

こんにちは。

> 理性に訴えかけ理詰めでいくならなおのこと、多少の皮肉ぐらいはいいとして、できるだけ「強度の侮蔑感」は排除して臨んだほうがいいのでは…というのが私の考えです。そこはすれ違いになりましょうか。

私が本文で「侮蔑感」を表明しているのは、国家間の紛争を煽り立てる様な事を言って自己の政治的な人気取りに利用している人達であり、私は彼らにも(人間である限り)決して「死ね」とは言わず、生きている限りはゼロでは無い変化の可能性に掛けているのです。(そういう意味での「期待」が無ければ私の場合は何も言いません…必要ならば家族や友人にも言いますね)

ちなみに、私の「裏」の昨日付けの日記にも書きましたが、私は某所で「死ねばよいのに」とまで言われましたが、そういう相手であっても、私は対話を拒否してはいません。

> 相手と友好関係を築きたいのであれば、「単なる打倒の対象」にはならないでしょう?というのが私の理屈です。つまり、友好関係を維持・発展したいなら、「単なる打倒の対象」を取り下げるのが筋では?ということです。

まず「単なる打倒の対象」という言葉を私が本文で使ったのは、生きている「人間」に対してではなく、その「人間」が作った【道具】でありながら、疎外されて「人間」を抑圧する【凶器】と化した「国家」という組織に対してである事に留意して下さい。

よって、その2つ(変貌した凶器への打倒と、生きた人間との対話)は、基本的には矛盾してはいないのです。相手の持つ【道具】である「国家」に対する見方がどうであれ、人間同士として相手を否定せずに「対話」する知恵を、人間は持っています。

貴兄は、それを矛盾している様に考えている様ですが、冷戦中ですら互いに核兵器の標的として、相手「国家」を殲滅する対象としていた東西陣営の間ですら、やはり「対話」は有りました。(代理戦争は続いていましたが)

国家間の「友好関係」というのは、相手の国家体制への(左翼としての)評価とは別にしても、堅持すべきであるという【一致点】とは、互いの「意見」が異なっても構築可能な問題でしょう。
(これは単なる情緒的な問題では無いのですから)
投稿者:ペリフェラル
こちらこそ長くなりましてすみません。次にいきます。

【戦争への態度について】

自衛戦争すら否定するお立場からの、ベトナム戦争に対するご見解をお伺いしたいと思います。
人名の損失を最小限にするという観点からは、徹底抗戦を貫くよりも早い段階でアメリカに白旗をあげてしまったほうが良かったということは言えるのでしょうか? ベトナム民衆に指図するということではもちろんないですが、それが望ましいか望ましくないかという価値判断はできるかと思います。お考えを伺いたく思います。

また、当時は(今も変わりないでしょうが)、民族自決、植民地からの独立という大儀があり、そのためには武装闘争は当然の選択肢でした。日本の左翼もそれを支持し支援をしようというのが大勢だったと思います。しかし、これはありていに言えば戦いのために尊い血が流れてもやむなし、当面の人命よりも大事なことがあるという考え方だと思います。
「人命の至高性」からは、これをどのように評価されるでしょうか。難しい問題ですが。

【人命の至高性について】

妊娠中絶について、どのような価値判断をされるかについてのお伺いです。
多くのキリスト者が中絶には反対しています。「殺人」とまで言う人もいます。たしかに、子を宿した状態からその命を奪う行為ではあります。人命を奪っているという批判にも一理あるのかもしれません。
中絶賛成側からすれば、線引きして人命扱いをしないということで納得しているのでありますが、心理的には割り切れないところもあるでしょうね。
私はたとえ人命であっても、状況依存的、価値相対的に判断しなければならないことがあると思っています(尊厳死・安楽死もその例)。この場合は、主に女性の権利が優先されるということでしょうか。その意味で「人命の至高性」を素直には信奉できないでいます。
伊賀さんは、どうお考えでしょうか。
投稿者:ペリフェラル
>(そんな事は言う必要の無い事でしょう)

もちろん、仮に伊賀さんが外交官であったとして、そんな発言をするだろうなどとは思っていません。しかし、このブログ上では、他国政府の存在そのものを否定する発言をしておられるわけです。そして、このブログは世界中に公開されているのです。相手に筒抜けになっている。極端な例ですが、公開日記で「こんな奴嫌いだ。死ねばいい」と書いておいて、対面の席では「友好、友好」といっても信用はされないでしょう。


>左翼の【原則】は、既存の「国民国家」という【枠組み】の中で、如何にでも柔軟さを持ち得る筈ですし、そうでは無い事を(一言も)私は言っていません。(苦笑)

といいますか、私は仮に自分が伊賀さんの政敵・論敵となった場合(*)、どこに反感・立腹しどこを突いていくかという視点を織り込んでお話しているつもりです。伝え方が下手なのはすみません。
柔軟性がないとか、そういう指摘をしているのではありません。

平行線が続きそうならこの件については終わりにしましょう。

(*) 実際、反核・反原発、9条護憲、格差是正などで一致するところはあっても、私が共産主義・社会主義者ではないということに於いては既にそうであると言えますが。
投稿者:ペリフェラル
伊賀さん、こんばんは。
早速のレスをありがとうございます。どうもただでさえ遅いのに、諸事情で通常の3倍以上遅くなってしまいました。すみません。勝手ながらもうしばらくお付き合いください。
実はこの話題は、まだほんの前哨です。できれば軽く終わらせて次にいきたいという思惑でしたが、流れによってはそうもいかないかもですね。

前半部ですが。

>無論ですが言葉は選びましょうが、率直かつ明白に表明する事すらも「対話」の一環であろうと、考える次第です。

なるほど、それで「対話」を進めることは十分可能ということでしたら、余計なお世話だったのかもしれません。経験おありのようですし。
私なんかないですね。「最大限の軽蔑」を抱く相手とまともに対話をする自信が。そういう相手とは、対話というより説教・教化、あるいは罵り合いで終わってしまいそうな気がする。理性に訴えかけ理詰めでいくならなおのこと、多少の皮肉ぐらいはいいとして、できるだけ「強度の侮蔑感」は排除して臨んだほうがいいのでは…というのが私の考えです。そこはすれ違いになりましょうか。
伊賀さんとの人間の格の違いなのかもしれません(もちろん私が格下)。

後半部です。

>私は何処でも(一か所でも)、それを否定していません。

直接的・明文的には否定していないということは理解しています。しかしですね。相手と友好関係を築きたいのであれば、「単なる打倒の対象」にはならないでしょう?というのが私の理屈です。つまり、友好関係を維持・発展したいなら、「単なる打倒の対象」を取り下げるのが筋では?ということです。

>(前略)友好を図っていく事、言いにくい事でも(友好は前提にしつつ)何でも言い合える関係を外交的に築いていく事とは、矛盾している様に感じられるかもしれませんが、充分に併存させる事は可能な問題です。

耳に痛いことでも言うべきときがありうるのは、おっしゃるとおりです(非友好的ととられかねないことであっても、そうではないという態度を示しながら)。しかし、それには踏み越えてはいけない一線があります(「何でも言い合える関係」というのは幻想です。それは一般の人間関係でも同じでしょう)。相手の「存在そのもの」を頭から否定するのがそれです。繰り返しますが、その意味で「友好を図っていく事」と「単なる打倒の対象」は矛盾していると思いますよ。
投稿者:伊賀篤
●ペリフェラルさん。長くなってすいません。最後です。

現状の「国民国家」という【枠組み】は、それはそれで尊重して、むしろ必要に応じて積極的に友好的な態度(一方的な支援の再開とか)を取りつつも、その態度の【原則】はあくまで相手国の人民との連帯にあります。

相手国の「国民国家」を如何にするべきか?…それを決める権利は、相手国の人民にしか無いのですから、それがソフトになるか、ハードになるかは、相手国の人民しだいという事であり、そこに私は口出しするべきとは思いません。

左翼の【原則】は、既存の「国民国家」という【枠組み】の中で、如何にでも柔軟さを持ち得る筈ですし、そうでは無い事を(一言も)私は言っていません。(苦笑)

「国民国家」どうしの関係でも、全く評価できない体制であっても、信頼すべきは(人民の)理性の発揮という点においては、個人間での「対話」の場合と、本質は同じです。

あくまで、本記事では、その原則に関わる記述が多かったので、誤解を招いたかもしれませんが…
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