歴史を振り返ってみれば、何も「共産主義」というのは、マルクス主義やレーニン主義の独占物では無く、フランスのパリコミューン以前からある、資本主義批判の上に立った「理想」の精神であり、今日では歴史的に積み重ねられた多くの【不純物】によって、大きく変質させられ歪められた「悪夢」でしか無くなっているのは、非常に残念ながら事実であります。
この「共産主義」の歴史において、最も多くの【不純物】を持ち込んだのは、20世紀のロシアにおける革命の【流産】でしかなかった「10月革命」と、その指導者だったレーニンに依るものが最も多く、このレーニン型(コミンテルン型)の共産主義運動は、もはや徹底した「総括」を加えて、現代において庶民の苦悩に寄り添った常に新しく発展する「理想」としての「共産主義」の本来の生命力を回復せしめる事は、喫緊の課題であると感じて、私は今回の記事を書きます。
共産主義の「歪められた」歴史を紐解く為には、何よりまず近代ロシア史を振り返って見てみる必要があるでしょう。
帝政ロシアにおいて、最初に革命の歴史として登場するのは、早くもナポレオン戦争の時代(直後)における1825年の「デカプリストの反乱」に始まります。
この…初めは一部のインテリ貴族の反乱でしか無かったロシアの革命への「夢」が、実際にロシア皇帝による専制政治を打倒す事になった1917年の【2月革命】に至るまでは、約1世紀に渡る多くの庶民の苦悩と、それに寄り添ってきた革命家の多くの血が流れる事を要求されました。
第一次世界大戦の最中である1917年のロシアには、庶民による直接的な願いである「専制をたおせ」「パンをよこせ」「戦争反対」のスローガンにより溢れており、それまで抑圧され認められなかった政治的な諸権利(言論、出版、集会の自由および団結、ストライキの権利等々)と、それを実現する…普通、平等、直接、秘密投票による「憲法制定会議」の招集を求める、広範な社会的な広がりを持った(決して共産主義だけでは無い)革命運動は、【2月革命】において頂点を迎えます。その革命の特徴は【ソヴェト】と呼ばれる各職場や地域単位から自主的に組織された「評議会」が革命運動の中心を担っていた事にありました。
しかし、この民主主義的な諸権利と最低限の生活を求めて成就した真に大衆的であった【2月革命】を、僅か1年にも満たずに、当時は少数者でしか無かったレーニンが率いるボルシャビキ党(後の共産党)が、権力をクーデター的に簒奪した括弧付きでしかない革命である「10月革命」で、庶民の要求を踏みにじって革命を結果的に【流産】させたというのが、私のロシア革命への見方の基本です。
何故ならば「2月革命」以降の臨時政府が、庶民の願う戦争の講和に進まず、相変わらず庶民の生活に苦しみを強いていた中で、弾圧されたボルシェビキが反攻して軍を掌握し「10月革命」を起こした後に、実際にレーニンが【何を為したか?】を見れば、それは明らかだからです。(以下に述べます)
レーニンにとっては、権力の掌握と維持にしか目的が無く、庶民の要求であった「専制をたおせ」「パンをよこせ」「戦争反対」などは、その為の道具であって、庶民の政治的な諸権利(言論、出版、集会の自由および団結、ストライキの権利等々)と、それを実現する…普通、平等、直接、秘密投票による「憲法制定会議」の招集などは、何ら考慮にも値しなかった事は、まず「10月革命」直後に、国民との公約でもあった「憲法制定会議」の選挙が11月12日に行われたのですが、その選挙結果ではボルシェビキ党(後の共産党)は四分の一の議席(707議席中の175議席:総投票数3600万票の内の900万票)しか獲得できず、多数派は当時のロシアの多数を占めていた農民に基盤を持つ社会革命党(同370議席)だった事の結果に満足せず、この「憲法制定会議」は僅か1日だけ開催されただけで、レーニンの権力によって解散が命じられた事に現れます。
(そこで都合よく利用されたのが【全ての権力をソヴェトに】というスローガンでした)
仮にそれがドイツとの単独講和を果たす為の戦時下における「緊急避難」だったとしても、その後の干渉戦争と国内戦(1918〜20年)の「赤軍」の勝利を経て、このボルシェビキ党(後の共産党)による独裁と独裁への確信は一層深まり、そんな「緊急避難」などという考えは捨てられていきます。
革命の主体であった【ソヴェト】は、権力を委譲された後には、自由に労働者がモノを言える場所では無くなり、政府の方針を下に伝えるだけの場所になり、レーニンが創設した公安警察の「チェーカー」は、反権力に対して容赦なく取り締まりました。
ボルシェビキが権力を奪取した後も、しばらくの間は他の政党も合法的に存在しました。ブルジョワの政党である「カデット」は「憲法制定会議」の直前に解散させられましたが、1920年の第8回ソヴェト大会には、社会大衆党もメルシェビキも、その代表を公然と出席させる事が出来ましたが、1921年には事態は変わり、メルシェビキの指導者は国外に亡命を余儀なくされますし「憲法制定会議」で最大多数であった社会革命党は亡命さえ出来ず次々に「反革命」のかどで裁判され処罰(処刑)されます。ボルシェビキ党内(共産党内)でさえ自由にモノが言えたのは1920年の第9回の党大会までであり、その後の1921年には、クロンシュタットの水兵達が…「ソヴェトの改選、秘密投票の復活、労働者、農民、アナーキスト、左翼社会主義者の言論、出版、結社、集会の自由、社会主義者ならびに抵抗運動をした労働者の釈放」…という当然かつ控え目な要求を出して反乱を起こし…「我々はソヴェトの味方であって一党独裁の味方では無い」…という電信を発した事を握り潰し「外国のスパイ」のせいにしたデマを流し、レーニンは武力鎮圧を行って活動的だったものは、ことごとく銃殺されました。この「クロンシュタットの反乱」の最中に行われたボルシェビキ党(共産党)の第10回大会では、レーニンは「いまは反対派は不要である」と述べて【分派活動の禁止】が決められ、分派活動をするものは「除名」できる事が決定され、1921年の夏には党員の大々的な(思想による分派の)パージが行われ、73万人居た党員は53万人に減りました。1922年には公安警察の「チェーカー」の廃止と引き換えに更に「党員逮捕の権限」が追加された「ゲー・ペー・ウー(国家保安部)が創設されました。
これらは、全て、レーニンが最初の卒中で病に伏す前の健康時に行われた【狂気】であり、何の弁解も不可能な、人民への裏切り行為に他なりません。
レーニンは、もしも本当に「共産主義者」を目指したのであれば、彼が人民から奪った人民の諸権利を、人民に返す為に、せめて講和と内戦が終わった段階で、平等、直接、秘密投票による「憲法制定会議」を再開させ、多数の支持を得られなかったら、素直に下野すべきだったのです。
それが決して不可能では無かった事は、その後の世界史で、自由主義に留まった諸国においてすら、福祉などの社会保障が発展し定着させられた事を見ても、明らかでしょう。
よく、後継者スターリンに全ての罪を被せ、レーニンを【聖別】するかのごとき議論が、日本共産党内でも(党社研所長の不破氏などの一部に)未だにありますが、ここまででで見た様に、スターリンは他ならぬレーニンの作ったシステムを継承発展させたに過ぎない事は、もはや明確です。
ロシアは、このレーニンが作った制度によって後に数百万〜数千万の犠牲を産み、レーニンによって歪められた「共産主義」は、世界的には数億の犠牲を産みました。
これには、弁解の余地など、全く無く、ロシアの庶民が自由を(一部であれ)取り戻すには、ソ連の崩壊(1991年)まで更に74年の時間と血を要したのです。
よく、歴史を当時の事情を鑑みずに後世になってから批判するのは間違いだという意見がありますが、レーニンが行った独裁権力の確立の理論を、一般化し世界に普遍化させる為に創設された「コミンテルン」という国際組織によって創設された各国の共産党(日本共産党もコミンテルンの日本支部として創立されました)は、その出自に拘り現代において【政治家】レーニンを批判しない事(水準)に留まっていて良いのでしょうか?
断じて【否】であります。
まして、現代において庶民の苦悩に寄り添った常に新しく発展する「理想」としての「共産主義」の本来の生命力を回復しようとするならば、ロシア史ならびに世界史において果たしたレーニンの上述した【否定的な役割に】徹底した批判をする事を抜きにして、そこには何の未来も無いと言うべきでしょう。
私は1年余り前に、下記の記事を書きました。
文明批判としての資本主義批判の現代における有効性について | 伊賀篤のブログ
http://blue.ap.teacup.com/nozomi/126.html
そこで私は、現代のミクロ経済学の到達点から見れば「市場」による資源配分にパレート効率的に優越する(理想化された市場こそがパレート最適である)という前提を当為として、投機的に破滅に向かう資本主義への代替としての、市場社会主義への展望や、資本主義の下における本人の責任に帰す事が不可能な「格差」の拡大と貧困の蓄積への代替として、新しい福祉社会の構想としての「ベーシック・インカム=基本所得保障」について語り、マルクスの時代の経済学(労働価値説)では無矛盾には数理的に説明できなかった「搾取」についても、マルクスの剰余価値学説=投下労働価値説による「搾取」の説明を捨て去る事と代替に(トレード・オフ)に、「価値」では無く「価格」を基準に定式化するならば、現代(のミクロ経済学で用いる最も一般的で広義の数理経済モデル)でも有効な「搾取」の定式化が有り得る事を、紹介したりしました。
もしも経済学に限れば、マルクスは未だに学究において読まれるべき「古典」の一つ(市場における等価交換においても「搾取」が存在する事を初めて発見したという意味で)ではあるのは確かにせよ、それは既に「古典」でしか有り得ない=現代で展望を探すには不充分に過ぎる…という意味で、私はマルクス批判を行いましたが、今考えれば、その前に【政治的】には、共産主義者が徹底的に批判を尽くすべき対象の、順序を違えていたと言うべきかもしれません。
今こそ、【政治家】レーニンは共産主義者自らの手によって、徹底的に批判し尽くされるべきであります。
政治変革とは、少数のエリートが行うものでは無く、あくまで大衆に寄り添って一緒に進むものだという私の信念からしても、国民多数が望んだ政治的自由や権利を踏みにじり、民主主義革命を流産させた少数のインテリ=「赤い貴族」による10月クーデター自体を、今日的に見て積極的な評価する事自体には、当時の事情を幾ら考えても(内戦・干渉戦争の終結時期と後の体制確立の時期を見ても)無理があり、共産主義者自身の手で克服しなければならない負の遺産だというのが、私の考えです。
(個人個人の民主主義的な権利や自由など眼中に無かった)レーニンが目指したものは、断じて人間の自由な発展が社会の発展の条件となる様な「共産主義」の理想などでは無く、自由な人民が当然に保障されるべき【2月革命】で要求された政治的自由かつ経済的な権利では無く、ただの独裁権力だったのです。
まず、そこからコミンテルンの流れを汲む各国共産党の「共産主義者」は、愚直に自らを問い直し、そこ(ロシア革命)で産まれた【民主集中制=分派の禁止】などについても、私の下記の記事…
日本左翼の再建の為の、日本共産党の自己改革(案) | 伊賀篤のブログ
http://blue.ap.teacup.com/nozomi/130.html
…の様な、すぐに出来る改革から始めて、根本的に「理論面」においても「運動面」においても、健全に自己批判し相互批判する様な【体質】に再生できるまで、自己の見直しを図っていくべきでしょう。
私は、それを本当の「共産主義」を目指す全ての人に訴えます。
※参考文献:(主に)
「人物ロシア革命史」鈴木肇:著(恵雅堂出版:2003)
世界の歴史22「ロシアの革命」松田道雄:著(河出文庫:1990年)
…他数冊
【2018/4/28:大幅追記】
上述したレーニンによる「クーデター」=「ロシア10月革命」について、非常に甘い評価(ロシア国民にとって)をしている書物として、日本での代表的な書物として、不破哲三氏による「レーニンと資本論(全7巻)」という書物があります。
また、レーニン自身には著述家としての側面もあり、今日でも【歴史的な書物としては】今日でも読み継がれる価値のある「帝国主義論」などの書物もあります。
これらについて、簡単に3点程ですが、批判・評価をしておきます。
【1】
まず、レーニンが政敵を全て非合法にした後に導入された「ネップ=新経済政策」への評価があります。
多くの人が御存知の通り、内戦と干渉戦争を通じてレーニンは「戦時共産制」という、強権的に農民から収穫を取り上げ、全ての経済を国家の管理下に置く事をしましたが、これが経済の衰退を招いた事から、内戦と干渉戦争の終了後に、レーニンは【政治面】では徹底した非民主主義=独裁を推進しながら、他方の【経済面】では銀行・金融業や大企業を除いた「中小零細企業」に限っては市場の復活を許し、各経済主体による利益を求めるインセンティブ(誘因)を活用して、経済の復興を図ろうとし、それはレーニン時代に限っては、一定の成果を挙げました。
しかし、現代(21世紀)の経済学や政治学を学ぶ事が可能な私達が、この20世紀前半の理論水準で行われた、レーニンによる「ネップ=新経済政策」を、あたかも…市場を通じた社会主義への道…などという物について、手本にしたり真っ当な批判を無しに学ぶべき点が有るなどと【評価】する事が、果たして妥当でしょうか?
不破哲三氏の致命的な欠点は、彼の現代(21世紀)の経済学や政治学への無知があります。
一例を挙げれば、このレーニンによる「ネップ=新経済政策」は、そのままでは(政治的非民主主義の下では)、必ずや行き詰ったであろう事は、現代の市場経済について勉強し、少なくとも「情報の非対称性問題=代理人(プリンシパル)依頼人(エージェント)問題」について、少しでも知っていれば、明らかな事だからです。
※参照
プリンシパル=エージェント理論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%91%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88%E7%90%86%E8%AB%96
レーニンは「ネップ=新経済政策」において、中小零細企業に限り「市場」を認めはしましたが、経済の基幹となる金融業や大企業においては認めていませんでした。(基本的に国有化)
また、そういった経済の基幹において国有化をしておきながら、政治的な民主主義による、情報の非対称性に由来する非合理性や不効率については、そもそも「独裁」を正当化していましたから真っ当なフィードバック(是正)など働く筈が無く、市場であれば自然に淘汰される様な事(不合理)に対しても放置される事になり、いずれ(そのままでは経過はどうあれ)後世のブレジネフ時代の様な停滞に至る事は自明であるとして、現代(21世紀)的には、【政治面】では徹底した非民主主義=独裁を推進しながら、他方の【経済面】では銀行・金融業や大企業を除いた「中小零細企業」に限っては市場の復活を許すなどという、現代の中華人民共和国的な政策には、批判的にならざるを得ない筈であります。
それすら、不破哲三氏には出来ていない。そこがまず1点目です。
【2】
また、内戦や干渉戦争が、あたかも「一党独裁」や共産党内での「民主集中制」を不可避とした、背景的な事情として描き出そうとする意図も、あまりに歴史的に【冷厳な事実】に対して、今日的には【不誠実】の誹りを免れ得ないものでしょう。
事実として、1917年10月のレーニンによるクーデター的(国民の多数に依存しない)権力奪取と、それまでのロシアでの悲願であった民主的な人民の諸権利や人権を保障すべき「憲法制定議会」を解散した事を受けて、翌1918年から内戦が始まりましたが、それは外国による干渉戦争ともなった事により、逆に「労働者と農民」の国を守ろうとするナショナリズムを刺激して、赤軍へ多くの国民を参加せしめる事となり、おおむね1920年頃には赤軍の勝利によって、国土の殆どで概ね収束を見せます。
(日本などは例外的に1922年まで極東ロシアへの干渉を続けていましたが)
しかし、レーニンが共産党以外を非合法として、ソヴェトから社会大衆党やメルシェビキを追放し、弾圧し消滅させたのは、その翌年の1921年からの事であり、これはトロツキーによる進言が元になったレーニンの決断だった事は、今日では常識に類する事でしょう。
つまりレーニンは、内戦と干渉戦争から、民主主義の放棄のみを学び、民主主義による地道な多数派の形成という事に疲れて放棄したというのが、時系列を追えば、歴史的に【冷厳な事実】と見るべきでしょう。
こういった事を見ずに、レーニンの行った「一党独裁」と、党内から民主主義を奪い(今は少数派の意見を聞いているべき時ではないと公言して)今もコミンテルン型の党の一部に残る「民主集中制」を布いた事は、何ら評価すべき点では無いどころか、むしろ躊躇無く批判すべき事なのに、それを不破哲三氏は、著書では何も行っていません。
それどころか、1917年10月の「革命」の流産から、70年以上経ってから始まった、ゴルバチョフによる「ペレストロイカ」に対して、それは「階級闘争」を放棄した「レーニン以降の最大の誤り」とまで評価した著書まで出し(つまりスターリン以下と評価し)、ロシア人民が歓喜の内に流産した「革命」を復興したソ連崩壊(これこそ後世からロシア史を評価する人は「革命」と評価するでしょう)に至るまで、そうした一面的な批判を続け、それ(過去の言動)を不破哲三氏が(忘れたふりをせず)改めたとは、今も私は聞いておらず、そんな氏がロシア史を語る事には、著述家としての【誠意】が感じられず、見方によれば軽蔑にすら値します。
【3】
最後に、レーニン自身の著述家としての側面です。
現代(21世紀)でも「帝国主義」という言葉は政治の世界で使われますが、その原型となった列強諸国による世界の領土的分割という政治と、金融独占資本の結合が歴史的に登場していたのが、レーニンの生きた19世紀末〜20世紀初頭の世界情勢でした。
こうした、時代を背景に書かれた「帝国主義論」は、確かに当時の世界情勢を知る上では、今でも必読の書物であるとは言えるでしょう。
しかし世界は20世紀の間にも大きく動き、特に第2次世界大戦の後には、列強により世界分割されていた各植民地は、民族自決運動の高揚によって、次々と【政治的】には独立していきました。(経済的な側面での自立は、まだまだという点が多々ありますが)
ソ連崩壊後の20世紀も後半になると、この「民族」という概念も相対化し、多民族が相互に尊重して共存する「住民」による自治では無く、他民族への不寛容や他民族の文化等を尊重してこなかったツケとして民族紛争等が多発する事になりました。
こういう歴史的な経過を知っている現代に住む我々としては、既に「帝国主義」という言葉自体も、20世紀初頭とは異なる意味合いで使用しており、その「帝国主義」批判の有り方も変わってきています。
(露骨なアフガンやイラク戦争への批判もあれば、TPP問題の様な経済的な面での批判から、中国などでの少数民族への同化政策といった文化帝国主義といった問題に至るまで、様々な面で帝国主義という言葉は語られます)
つまり、レーニンの「帝国主義論」といえども、それは既に歴史的な書物であり、現代を創り出した原型としての20世紀前半までを学ぶ上では大いに意義もある書物とも言えるでしょうが、それをそのまま現代に当て嵌める事は、既に不可能になっているという事は忘れてはならないでしょう。
(これは本ブログで過去に引用をした事もあるレーニンの著書「国家と革命」についても同様です)
元来そもそも【左翼】とは、国家(という組織)と個人の人権の関係において【右翼】と袂を分かち、個人あっても国家という立場から、国家あっての個人という立場と対峙して、個人の持つ普遍的という意味で「特権」とは区別される「人権」の擁護と確立を目指す立場ですから、人権が尊重されるべき現代においては、例え目的が何であれ、無差別テロリズムの様な行為は、国家が行うものであれ個人や組織が行うものであれ、いずれにせよ断じて容認は出来ない立場でありますが、もしも20世紀に発展した人権概念を無視して、未だにレーニンの「帝国主義論」的な視点でのみ世界を把握して、
レーニンと同様に目的の為には手段を選ばず(レーニンは富農を絶滅させる為と称して毒ガスで村ごと虐殺を具体的に量や散布方法を考えろと指示する事までしていました)、「反・帝国主義」でさえあれば、何でも許されるとするならば、それは如何なる立場からの運動であれ、それは運動自体の自殺行為であるに留まらず、大きな不幸を人類に齎す結果にしかなりません。
我々は、現代に住み、現代の視点で、現代の(政治や経済の)理論を学び、未来への「展望」を探し、それらを「対話」して、互いに「学習」して、前進しなければならないという点において、あくまで過去(含:古典)を捉えていくという事が、何よりも重要ではないでしょうか?

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