2004/11/26 20:21
最近、我が家には、野良ネコが2匹来ています。(雌雄は未確認)
家には上げられないのですが、外にエサ皿を置き毎日エサをやっているので・・・
(家族が寝静まってから、少しだけコッソリと家に上げた事はある)
一匹は、三毛猫で、とても人懐っこい。
(少しだけ家に上げたのはコッチ)
もう一匹は、白と黒のブチだが、決して人には寄ってこない。
(それでも最近は、私を見ても、あまり遠くまでは逃げなくなった)
その2匹は、たまに並んで日向ぼっこをしている事もあるので、性格は違っても案外と仲は良いらしい。
深夜、私が外で煙草を吸っていると、近くで猫達が毛づくろいをしていたりする。
そりゃ、猫とは別に会話が成立する筈も無いのだが、黙ったままでも近くに居るなと感じる「間合い」の取り方が、なんか猫って上手いよな〜
別に、そんだけの事なんですけどね・・・
この記事のタイトル(CQ)は、「中島みゆき」が十何年か前に出したアルバム収録曲の名前なんだけど、その歌詞の中に・・・「咲いてた花の事や、好きな人の話、ただ聞いて欲しいだけ」・・・ってのがあったので、それを私も実際にやってみようかと思っただけです。(笑)
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余談・・・「包帯の様なウソ」
掲示板で頂いた御投稿がキッカケなんですが、党員らしいWEBって何だ?・・・と考えました。
掲示板での御投稿の「言われないと党員のWebとは思えない」というのは、(恐らく)単に私のサイトが政治的じゃないというだけの意味じゃなくて、あまりゴリスタ(ゴリゴリのスターリニストの意味)っぽくは無いという評価も兼ねた表現だと(私は)思ったのですが、ここでは投稿して下さった方の文意からは離れ・・・少々脱線してみます。
私は、歴史的には「理想」自体だって変化していく事が見えなくなるという理由で、「本来あるべき」なんて疎外論的な修辞方法は好きではないのです。
だから、そういう意味での「党員らしさ」ってのが、果たして定義できるのか否かは、私には良く判らないという事にしておきます。(苦笑)
ところで、何らかの組織にとっての「○○らしさ」とは何か?なんて事よりも、私は個人レベルに限定して「何処の人間も似たようなモンだ」という事を発見したり感じるのが好きみたいです・・・
多分、何処の組織の人間だって、嬉しければ笑うし悲しけりゃ泣くでしょうから、そういう事を確認するとホッとするとでも言いますか・・・
あくまで一般論ですが、何らかの組織が、組織としての機能を維持する限り、生物の体と似たような理由で、少しも排他性が生じないなんて事は(私には)想像し難く、外部から見れば「おいおい電波が入ってるぞ〜」なんて事は、程度の差こそあれ何処にでも生じると思えます。
つまり課題としては、如何にしてその「程度」を、よりマシに変化させるのかって事なんですが、仮に組織の「程度」が相違していたとしても個人レベルでは大差が無い事を知れば知る程に、異なる組織間での争いなどという局面などで大きな不幸が見えたりすると、思わず「組織なんていう壁なんか全部無くしちまえばイイじゃないか?」とも言いたくもなります。
(なかなかそうはいきませんが)
しかし、誰もが雨露を凌ぐ様に(家族レベルから地域・宗教・政党・国家に至るまで性質や規模の差はあっても)、壁をこさえて身を守りたいって気持ちを(多少は)持っています。
だからといって、壁を必要とする気持ちを理解しようという観点【だけ】に囚われてしまうと、恐らく何も「変化」なんて出てこなくなってしまいます。
例えば、互いの利害が相容れないって状況があって、当事者としては「努力」をしたつもりでも、結局は綺麗事を貫く事ができなくて、自己の利益の為だけに相手(もしくは自分)を排除して(されて)しまう場合を仮に想定したとします。
あくまで個人に【だけ】目が向いてしまう私の場合だと、下手をすれば(感傷的に)悲しい気分になるだけで、排除という結論を(ヘタレだから)責めきれない気もします・・・(苦笑)
もちろん、相手を理解をしようとしない事には、対話自体が成立しないので、相手の立場や気持ちを理解しようとする事も大事なんだけど。
どこまでが「包帯の様なウソ」になるのかな。
まぁ、組織が相互理解の「壁」であるのか否か?なんて抽象論を捏ねて、ハタから見ればキショク悪いだけの感傷なんかに浸るなんて事は、そんなヒマがある人間が他者を見下すに等しい偉そうな態度だと、必死に働いている方から怒鳴られそうです。
だから、とりあえずサクサクと目の前にある「仕事」という具体的な「壁」でも壊してきます。
(余談の方が長くなっちまったぞ・・・オイ)

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