2004/12/13 2:38
今日は、日記なんだけど・・・少し理屈めいた話をします。
別に大した「論理」はないのに、自分に欠けた部分を補う為の方法として、自分に出来る事が「理屈」しかないのが、未だに情け無いとは言えますが・・・(苦笑)
本当は、和み系のネタで、昨日あった妻の実家における法事(正確には妻の伯父の33回忌で「お年忌明け」の法要というものらしいが)やら、どうやら「精進落とし」という名目だったらしいのですが、昨夜に泊まった(脳ミソのシワがノビて無くなりそうな)温泉ホテルの話でもしようかと考えていたんだけどね。
(そっちは掲示板で話す事にでもします・・・笑)
さて、前置きなんですけど、(他の人の事は知りませんが)私自身には、「自分は、こんな事にも気が付かなかったのか〜」って思う時が、時折あります。
そして(本当に判ったと言えるのかどうかは別にして)、自分では「やっと判った」という事であっても、単に理解できたというだけの事では、何の意味も無いというのが多いという事が実態であり、所詮は「何をやったのか?」に比べれば「何が判ったか?」なんて事は、そんなものかもしれません。
それだけの意味しか無い事の証明みたいに、私は(多分)馬鹿なので、そんな浅い理解のママでは、野蛮に切り抜けていかなくてはならない「生活」の中では、そのカッコつき「理解」の事を、私は(すぐに)忘れてしまうのです。
今までの私が常用していた、個人的に(誰にも見せない)未整理メモとして書き付けるだけだと、しばらくすると書いた本人である自分自身にすら意味が判らなくなり、備忘録の用すら成しません。
だから、果たして「書く」という事に如何ほどの意味があるのか?ってのは判らずに、自分でも何を一体してるんだ?とも思います。
それでも、(えらくローカルな場所とは云え)ウェブ上に公開している限りは、確実に少しは「読者」というものを想定しているのです。
そうである限りは、自分の問題を「昇華」させ、「希望を示す」なり「楽しませる」ってカタルシスを提供しようとするのが、他者に対する一般的な礼儀というか・・・最低限の「スジ」なんでしょう。
もちろん、私にも(ほんの・・・少しかもしれませんが)そんな気持ちだってあるとは信じたいのですが、結果として何処までそれに「成功」できるのか?・・・なんて事は判りません。
しかしまぁ、とにかく私の今の「心境」について「書いて」みます。
でも、こりゃ以下に書こうとする「本題」に比べて前置きが長すぎだわ・・・
(大江健三郎風に表現すりゃ「見る前に飛べ」ってカンジ?)
具体的には・・・特定の「何」って事でもないのです。
(といっちゃ嘘になるのかなぁ?)
ただ・・・誰であれ自分の周囲の「世界」と「自分自身」との関りにおいて、事の大小には関り無く、失敗やら挫折やら妥協なんてものは、(恐らく当たり前の事として)よく起こり得る事であり、それ自体では別に決して「悪い事」とは言い切れないという事も、多いのだろうと私は思っています。
つまり、「失敗やら挫折やら妥協」に如何なる意味を持たせるのか?なんて事は、それ以後の自分が、それに向き合っていく自分の意思を持ち、その意思を通す為に何が出来たのか?によって、場合によっては後に誇る事が出来る程にまで、意味を正反対にしていくなんて事だって不可能とは言い切れず、私も常にそれを視野に入れていきたいとは思います。
しかし、不幸が・・・当事者である自分自身における「失敗やら挫折やら妥協」の受容形態から生じるという事は、自分自身では認めたくないんだけど・・・確かに在る。
一つの実例として、「失敗やら挫折やら妥協」に際し、(これも「人間らしい」反応ですが)その衝撃や絶望に流されてしまうだけになってしまったり、それまでの比較的に「幸福」だった時期に自分自身が望んでいた事までを全て消し飛ばされて、自分の意思まで「失敗やら挫折やら妥協」という局面状況に依存させてしまう事、つまり状況に耐え得ないとして自分の意思を手放すという事がありました。
これも、それだけの事なら善も悪もないんですが、仮に手元に如何に価値がある多くのものが残されていても、自分の意思を手放した自覚が無ければ(代償として)、不幸が生じる問題となるのは、世界の「悪意」しか見つけられなくなったり、「悪意」しか認められなくなってしまうって心理状況です。
要するに、もしも世界に悪意しか認められないのであれば、その人にとっての幸福とは、狂気の別名だという事です。
(まぁ・・・狂気でも構わないと寝言を言う大馬鹿野郎も、別に他人事じゃありませんが)
しかしやっと・・・こんな事が判ったところで、何の益もありません。
ですが・・・もしも「毒」からでも人が得るものがあると仮定すれば、一つの希望として残るのは、逆ももまた真かもしれない(真である筈だ、もしくは真であって欲しい)という観点も、同時に考えられる事です。
(これもまた・・・本人次第なんでしょうが)
カンが悪い私ですら、考えてみれば(恐らく「常識」を持つ自分以外の人間からすりゃ考えるまでもなく)、これまで多くのものが他者から与えられてるんだよね。
まだ何も・・・終わっていないどころか、始まってすらいない事も多いワケで、迂遠な回り道をしつつも、ココまで歩いて(落ちて?)きたのであれば、逆の方向にだって歩いて(戻って?)いく事だって、例え遠い様に感じる事があっても、決して出来ない筈は無いと、今は考えています。
あくまで自己満足で自分の為に過ぎないとしても、せめて1つぐらいは、何かを返したいもんです。

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