最後の再掲記事です。とても長いのですが、全文再掲をお許しください。2005年12月1日に書いたものです。
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この本も、私にとって、とても大切な本です。ずっとご紹介したいと思っていましたが、容易にご紹介できない本なので、自分の中にエネルギーが溜まるのを待たなければなりませんでした。本当は、どんな紹介文も必要ない本だと思いますし、この貴い記録について、私に何かが書けるとは思えませんが、若い日に林さんと出会ったおかげで、その後の人生に計り知れない恩恵を受けた一読者として、また、今心から平和を願う者として、はじめに少し書かせてください。
この本に出会ったのは学生時代で、そろそろ卒論のテーマを決めようと考えていた頃でした。まだヴェルコールに出会う前です。なんとなく手に取った本でしたが、私は林さんに強く惹かれて、彼が仏語で暗誦していたという『チボー家の人々』で卒論を書いてみようかと思ったほどでした。
そのとき、私はまだ『チボー家』を読んでいませんでしたが、この長い物語を原書で読みとおす力は到底ありません。けれど、他の多くの作品と同じように、まず翻訳を読んでから原書を読もうという気持ちにはなれませんでした。今は無理でもいつか必ず独力でチボー家を読もうと思い、それが自分への宿題になりました。
その宿題にやっと取り掛かることができたのは、それから10年ほど後のことです。子育てが一段落して、まとまった時間が取れるようになり、念願だった原書を買いに行きました。その間も、ある程度読み書きの訓練はしていたつもりでしたが、やはり長いブランクがあったので、最初は1ページ読むのに数時間かかるありさまでした。それでも、かつて林さんに惹かれたように、今度はジャックに魅せられて、彼の声を聞くために毎日本を開きました。あの頃は、今のように平和の危機を感じてはいませんでしたが、「出る杭は打たれる」社会で生きることに希望を見出せずにいた私は、抗いえぬ時代の奔流の只中で、最期まであきらめず闘い続けるジャックに自分を重ね、魂の奥に深い励ましを得たのでした。
半年後に全巻を読み終えると、仏語を読むことは生活の一部になっており、私は初めて仏文学の本質に触れた思いがしていました。それは、学生時代にはわからなかったものでした。フランスに帰国された先生に、『日本』で暮らすことの困難を訴えたとき、先生から頂いたお返事には「仏文学を読んでください」とありました。そのことの意味がはっきりと自覚されたのもこのときです。自分を持つことが「打たれる杭」であることを意味する場所で生きる私にとって、仏文学は大切な精神の拠り所になりました。再びはじめた乱読が、やがてサルトルやクンデラとの出会いを導いてくれました。
殊にサルトルとの出会いは、私の人生にとって決定的ともいえる重さを持っています。それを思うと、私が林さんから頂いたものの大きさ、豊かさは、はかりしれないものがあります。
1945年の日本人男子の平均寿命は23歳だったそうです。読むたびに胸を切り裂かれるような痛みを感じる本ですが、今回の再読では、いっそうその感が強く、今憲法を守れなければ、何年か何十年かの後に、林さんと同じ苦悩を生きて若い命を絶たれなければならない若者たちを生むことになるのだと、決意を新たにしています。
日記は、三高、京大時代の第一部と、学徒出陣により海軍に入ってからの第二部に分かれています。ほかに手紙や論文、お兄さんの手記(林さんは早くにお父さんを亡くされています)と親友の回想記が収められています。日記と手紙、お兄さんの手記から少しずつご紹介させて頂きます。日記だけで2段組160ページあり、ご紹介したいところばかりで迷いました。全編を通じて非凡な批判精神に貫かれていますが、第一部からは、林さんの個性が表れている部分と、青春を生きる一人の若者として現代にも通じると思われる部分が、苦悩に満ちた第二部からは、苦悩の中にありながらも冷静に「軍隊」を観察しておられる部分、今にも通じる日本の問題について考えておられる部分が入るように選びました。ほんの一部ですが、全体の量が多いので長くなってしまいました。ご一読頂けましたら幸いです。
(ドイツ語のアクセント記号の入力方法がわからず、アルファベットのみの記入になってしまいました。ご了承ください。)
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第一部
<まえがき>
1939年(昭和14年)、神奈川県立横須賀中学を卒業した林尹夫(ただお)は京都第三高等学校を受験するにさきだって、トーマス・マンの作品に傾倒していた。それらははじめ、マンの短篇集であったが、トニオ・クレエゲル、トリスタン、ルイスヒェンをへてやがてマンの評論や長編へのはげしい関心に発展したとき、文学への思考が三校文科を受験する契機になった。
トーマス・マンは彼の思想的開眼の導きであった。人間の精神とは、生と死とは、そして何のために、いかにして人は生きねばならぬか、青年をはげしくとらえる想念が、思い切り、深く理解できるように外国文学書を読みたいという意欲になる。彼はこのため三高入学直後、病気療養を理由として休学し、英・仏・独の研修に没頭するかたわら、ドストエフスキー、ブルジェ、マルタン・デュ・ガールの作品を読む。とりわけ彼に決定的な影響をあたえたのがマンの『魔の山』、デュ・ガールの『チボー家の人々』であった。
両書は第一次世界大戦と青年の問題がテーマであるが、これが彼に歴史と人生、文学と生命という相い関連した課題を自覚させる。
まさに時は戦争の時代であった。昭和初期から日本は山東出兵、満州事変、日中戦争を経て、いま全面的な戦争に突入しはじめていた。1940年こそ皇紀2600年と歓喜の声をあげたものの、5年後の無条件降伏が声なくひそかに近づいていた。
ヨーロッパでもヒトラーのナチス軍隊が東奔西走しつつ、戦えば勝つと錯覚しつつ墓穴の一歩を刻んでいた。全ヨーロッパがふたたび戦火に包まれてゆく時代、このような状況を背景に、青春の自覚が、みずからの怠惰を鞭打ちつつ、生きている時代の自己の存在の意義を探求しようとしたのがこの記録である。
時期的には1940年4月から43年夏にかけて彼が満18歳から21歳まで(三高、京大)の日記である。
<日記>より
第三高等学校1年
昭和15年4月22日
我々が学問をするのは、それによって、それを通じて、我々がもっともよく生かされると信ずるが故である。
学問を習得することは、人間として純粋に知識を憧憬するの念に基づいている。その純なる流露に基づいている。
しかしてそれは二つに分かれ、純粋に知識を吸収するのと、一方また、得た知識、すなわち学術により、それを手段として、実社会において活動し、自己の向上と同時に、社会の向上を目的とするのである。
しかして学問を習得することにより、我々は知識を得るのにとどまらず、人間として鍛錬されるのである。知識を得ることと、人間として鍛錬されることは、別個に行われるものでなく、一つの活動の、一つの結果の両面なのである。また、そうあるべきである。
たとえば自然科学等の対象は、主として人間の心や人格とは関連をもたない。しかしながら我々は、それを研究することにより、我々の人格を鍛える。社会科学また然り。いわんや哲学、倫理学においてはなおさらである。
(4月中の読書整理と計画)
(1)4月中に読んだもの
黒い眼と茶色の目(徳富蘆花)
車輪の下(ヘルマン・ヘッセ)
愛と認識との出発(倉田百三)
春の水(ツルゲーネフ)
ボヴァリー夫人(フローベル)
デミアン(ヘルマン・ヘッセ)
額の男(長谷川如是閑)
(2)読みたいと思う本
第一学生生活。第二学生生活。社会思想家評伝。書斎の窓より。感傷と反省。文学の周囲。時局と自由主義。ファシズム批判。トマス・ヒル・グリーンの思想体系。(以上、河合栄治郎氏)
生活・哲学・芸術。日本人の心。(以上、谷川徹三氏)
漱石全集(天野、安倍、長与)。
6月23日
(略)
私にとって、人類の意志のいかんよりも、まず自分の存在というほうが、呑み込みやすい。なんといっても、そしてその過程はともかくも、私は事実として存在する。しかしてこれは、不動の現実である。
私は元来、実践者であって、批判者ではない。私はまず、創造ということを重んずる。しかして批判者は、その裏づけにすいぎない。けっしてそれ以上のものであってはならないと信ずる。
しからば創造とは何か。それは自己形成である。あまりにも抽象的なことであるが、ヘッセの「私は自分のなかから独り出てこようとしたところのものを生きよう」とすることが、自己形成であるまいか。
(以下略)
11月6日
弱いこと、それは一つの罪悪だ。また一つの怠慢ではあるまいか。
我々は生きている。そして我々の生を、清く美しく、価値あるものに高めなければならない。そしてこの清さ、美しさ、価値は、客観的基準によって規定されるものでなく、主観的な誠実さを主体とする意志の評価によってはかられるべきものである。これこそ本質的なものではあるまいか。すなわち、可能なのは、ただ努力だけである。
評価とは、付随的なもの、非本質的なものである。そして我々は、その本質的な点においてのみ耐え得れば、みずからかえりみて、是とする。人は自己の価値判断にあたり、客観的評価の対象としての自己に重きをおいてはならない。ただ、自己の努力にのみ重きをおき、それについて恥じてはならない。ここに勇気を持たねばならない。それこそ背水の陣というべき生活態度で、真の平静は、これを前提とする。また、それなしに成立し得ず。
問題の力点はwhat(なに)でなくしてhow(いかに)である。みずからwhatをたのむは、一種の停滞である。
howのみが創造の根拠である。ここに我々の生活の本質的な把握がある。
人は、みずからを信じ得なくなったとき、崩壊する。しかしながら、人は常に、行為的誠実さの点からも、自己を高めるだけの信念がなければならない。要するに野心とか、目的論的行為は、不健康な病につきまとわれる。それは、sollen(すべきである)として目的をたっしうるも、その評価は、sollenへの誠実さ、努力で、how much(いかに多いか)の問題であろう。いくら近づいたかということは、副次的なものにすぎないのだ。
12月8日
日常的な行動において、もっとも切望する、そのものを行うべきである。嫌なことは、どんなことであっても、してはならない。
京都は淋しい。しかし真にDenken(思索)の行える場所なのだ。永遠のものとぶつかる場所だ。古典はあらゆるものの母体であるまいか。それに入るにせよ、出づるにしても。

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