千田(広島県福山市)は江戸時代から低湿地帯でよく水に浸かった。
今から155年前、ペリーが非紳士的な態度で、わが国の法を無視して不法に長崎以外の港に押し掛けた1853年7月8日(嘉永六年旧暦六月三日)。この年、ロシアのプチャーチンも国境交渉のため、長崎に来航したのが8月22日(旧暦七月十八日)。ロシアはわが国の国法を守って長崎に停泊した。
ペリーとの交渉は林大学頭が当たり、プチャーチンとの国境交渉は筒井肥前守の下で川路左衛門尉が当たった。林は翌年もぺりーに押し切られたが、川路左衛門尉聖謨(としあきら)はロシアの言い分を悉く突っぱねた。
ロシア使節プチャーチンとの交渉に赴く筒井、川路、荒尾、古賀一行400名(警護の鉄砲隊を含む)が厳冬の
12月クリスマスイブの24日(旧暦十一月二十四日)西国街道を長崎に向かって
福山城下を通過した。通常旅人は福山城下を通らない。福山城ができる前は、神辺城が備後の中心で、参勤交代道は神辺宿を拠点にしていた。福山城下は官道コース(参勤交代道)から外れており、出口の芦田川山手橋は当時は常設橋ではなかった。時の老中首座阿部正弘の居城(実際には阿部は常に江戸詰めで城代家老が仕切っていた。佐原作右衛門は既に隠居している)が福山だったので、筒井隊は上司に敬意を払う意味で福山城下を通過する異例のコースを選択した。このときは山手に臨時橋を渡して一行を通行させた。
筒井隊は、三隊に分かれ、二日の時差を設けて西征した。駅馬人足の調達が容易になるからだ。古賀隊は往路は筒井の従者で常に行軍日程が同じなので、本陣の使用は出來ない。神辺宿から山越えして福山城下に入る際、この千田の低湿地帯で行く手を阻まれた。当時の
長崎日記(筒井配下古賀茶渓の随行員窪田茂水著)にはこう書いてある。
「宿(神辺宿=かんなべじゅく)を出て山邱につき行く。福山道に而(て)屡(しばしば)迷ふ。千駄村縦横に道あり。福山道いつも大なり。橋を渡り山手村にいたる。」
殿様が行列を組んで多くの馬を引き連れ、何百人もが通行するには低湿地の田圃の畦道は路肩が弱くて適さない。神辺から山越えして東に向かい、最初の辻堂から更に東に進んで千塚池の土手際を折り返して丸池まで高台の道を通るのが正式のルートだ。
一行は恐らく、辻堂から向かい側の山の形状を見て、真っ直ぐ千田沼を突き切れると思ったのだろう。前日、前々日は吹雪だった。当日も午後は小雪。雪融けの畦道は足元が危うい。太い道を選んで進むもののしばらく行くと足元を取られて難渋し、何度も迂回を繰り返したと思われる。「福山道に而(て)屡(しばしば)迷ふ。」とはその辺のいきさつを表している。
話がここまで來るのに随分長引いた。要するに千田川沿いの低地は千田沼と呼ばれていたくらい、しょっちゅう川が溢れて水に浸かった。西国街道との合流点横尾と福山城下を結ぶ旧道(藪路大峠=やぶろおおたお)は周囲の地勢に比べてかなりの高さの所を通っている。道路を越えると横尾駅までは逆に下り勾配になる。
手前が千田川 奥が南

畑と宅地との高低差がよく分かります。真ん中のベージュの壁がT口さん宅。その左隣の白壁のお宅を鉄道が通っていた。(*ただ今別の写真を準備中です)
T口さん宅から横尾駅方向 写真の奥が北

斜向かいの空き地は以前居酒屋さんがあった。その向かい側が佐藤電気さん。
その四つ角から福塩線の最も膨らんだ部分に鉄道が繋がっていた。(*ただ今訂正原稿と別の写真を準備中です)〆(..)para1002n(ぱら仙人)


←今押して♪

0