鞆鉄道(29) 鉄道用地買収
鉄道用地は公共性が高く特別な税制措置も必要なのか、土地の種別に農地・雑地・宅地の他に鉄道という種別があります。用地買収する前は農地ないし宅地の場合が殆どでしょうから、余程止むを得ない場合以外は、例えコースが迂回するようになってでも、農地の買収の方が安上がりです。要するに街中の宅地の買収は土地の値段だけではなく移転保障も掛りますから経営上採算の取れる見込みがないというわけです。その上、途中の一箇所でも交渉がスムースに進捗しなければ計画全体が頓挫してしまいます。危険な博打のようなものです。
鞆の町は福山以上に長い歴史があります。海の背後はすぐ山で、その間の狭い土地に民家がひしめいていて、しかも歴史を重ねた町並みです。東西の路地は北側の路地を廃止して地続きにし、南側の道路と統合して拡張することは可能です。屋敷の面積は変らないから路地の両サイドが同じ地主であればなおさら簡単なことです。ところが、南北の通り(海と山の間の通り)はそうはいきません。通りの両脇の大地主が鞆の町の発展のために協力して通りに面した土地を差し出し、道路を拡張し、旧県道が出來上がっています。鍛冶町の旧県道の道幅と安国寺参道以北、鞆駅前の道幅は明らかに差があります。殆どの住民が生まれる前の道路拡張ですから、後から住んでいる方や代が変わって当時の様子が伝わっていなければ、旧県道は昔から道幅は広くてこのままだったと仰る。でも実際に当時の街中(安国寺以南)の様子を見た人は殆どいないです。
昭和3年8月の地図では鞆駅の前は道路のセンターラインより少し東(海側)に青く塗った海の部分が描いてあります。現在の道幅の60%くらいです。此処は鉄工団地埋め立てのとき、道路のどこから先が埋め立てられたか目撃者も大勢いてはっきり分かっています。古写真とこの写真の道幅を比べてみると人力車一台分と脇に人が二人ゆったり並んで電信柱(鞆鉄専用の駅間連絡の通信電信線、通話電話ではありません)がありますから、なるほど60%くらいの道幅です。鞆軽便鉄道は開業当時既に鞆駅よりも南に乗り入れるには土地がなく事実上不可能だったのです。
焼酎の原料の芋や鉄工業で使うコークスの輸送は船が主流でしたから鞆駅が行き止まりでも桟橋さえあれば、人も物も輸送の接続にさして支障はなかったのだと思います。(撚糸織物業の原材料、製品の輸送に関しては鉄道が出來て沿線で盛んになったが、)鞆の鉄鋼工業を支えていたのは主として船舶輸送で、船主にしてみれば道路整備や鉄道整備は利益に反する迷惑な話で、鞆駅から南には鉄道は來てほしくない思いが根底にあります。
それが尾道・松永・常石方面への輸送道路拡張を遅らし、周囲の状況の変化から結果的に必要に迫られた時にはもうにっちもさっちも行かないことになっていたわけです。道路の拡張が出來なければ、海側を埋め立てて道路のための新たな土地を得るしかありません。山崩れの土石の処理だけでなく、計画的に白茅の山を削って埋め立てる広大な構想の始まりです。
ウオヒサの鯛工房に展示してある古写真と同じ目線の現代風景

(2)

(3)
(2)鞆駅前の道路はほんの少し撓み加減にすんなり旧県道に繋がっています。(3)県道から西を見た様子です。スコレハイツの半分に突き当たるように鞆鉄の用地がありました。人によって、「ファミリーマートの手前まで鞆鉄の柵があった」と仰る方、「理容ニューヤングの手前だったかな」と仰る方、「法界さんまで」と思っておられる方、様々ですが、理容院は鞆鉄敷地内だったようです。古写真の柵の南側にあった路地は畠(現在スコレハイツ)に入るための鞆鉄との間にあった路地のようで、一番奥は崖になっていて山に上がる道ではなかったようです。
福山城の外堀がやがて埋め立てられるであろうことは自明の事実だったのでしょう。外堀の手前の野上町から鞆の入口までの農地が買収され、芦田川の河川敷の中に線路を敷いたのです。今なら先に線路を通しておいて、後で沿線に町を作り、利用客を集めればよいと考えますが、当時としては、人が住んでいる傍に線路を敷かなければ、集客の見込みは立たなかったのでしょう。民家に近くて安く用地買収できる土地は河川敷の中だったのです。
芦田川は神島橋辺りから3本に分かれていました。西は瀬戸川です。東は古い芦田川で、野上の水道局から競馬場に向けての道路が芦田川の土手です。間に中川があったのです。中川の土手の一部が現在の芦田川左岸(海に向かって=東土手)辺りです。3本の川の間は陸続きで家や工場や畠などがありました。勿論増水して川が溢れると浸かってしまいますから、家や工場は恒久的なものではありません。川の流れの上は鞆鉄道の鉄橋が渡してありますが、河川敷は高く土塁を築いて、その上に線路が敷いてありました。
高い土塁に駆け上がる傾斜地は野上堤防の所と水呑の堤防、田尻の三分坂です。一番急峻だった三分坂の切り下げ工事が行われたのは、大正14年の12月です。翌15年12月に鞆鉄道(現社名)に変更して、さらに翌昭和2年から蒸気機関車よりも馬力のあるガソリン軌道車の併用が始まります。
鞆町内の乗合自動車運行が始まったのもこの年ですし、芦田川鉄橋の橋脚(水呑松坂産業付近)を石組みに取り替えたのも同じ時期です。新社名になってから意欲的に事業拡大路線が顕著になってきます。
芦田川の河川改修(大正12計画、中州の民家、畑の買収が進められ15年着工、このとき県に譲渡した中州の鉄道用地の代替資金で新ルートの確保が可能になったし、新規事業拡大のはずみにもなった)、新堤防の築造に伴って橋梁路線の付け替え工事も行われます、昭和5年8月です。その前年の昭和4年3月に半坂停留所が設置されていますから。新堤防の完成を見越して河川敷の外の農地(水呑の妙見駅から半坂駅間と対岸の光小学校からホーコス間のルート)を買収し、準備は着々と進められていたわけです。(年表資料は鞆鉄道株式会社「60年のあしあと」、水害、河川改修資料は「芦田川改修史」中国地方建設局福山工事事務所)

para1002n(ぱら仙人)


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