鞆鉄道(84) 佐曾谷川氾濫
田尻の八嶽谷川、佐曾谷川(広島県福山市田尻町)の河口は土砂が押し出され海側に膨らんでいる。道路も鉄道もその地形に沿って折れ曲がっている。鉄道のカーブはできるだけ緩い方がいい。金崎の駅の手前で山側から海側に出るところでカーブの半径が遠くなるように(かなり手前から徐々に移って)折れ曲がりが(道路よりも)随分緩和されている。
佐曾谷川の河口では海側を赱る鉄道がカーブを緩めるため、かなり県道側に接近している。現在の道路の上に軌道をイメージすれば、下り車線の中央を赱っていた鉄道がセンターラインに接近しそのまま上り車線側ぎりぎりを進んで、再び下り車線側に戻るように見える。 鉄道は県道のカーブの手前からほんの僅かカーブし始めて佐曾谷川を越えた辺りで県道に最接近して(真っ直ぐ進み)、(湾曲している)県道と交差して、小林ペットショップとナワチの間に向かっている。
何度も氾濫して海岸線が膨らんでいった佐曾谷川河口

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(1)(2)佐曾谷川は独立した水系の小さな谷川で遡ってもグリーンラインの辺りまでだ。グリーンラインよりも上の分水嶺までの距離も精々200mほどでしかない。谷川に集まる平時の水量は高が知れている。ただ長い歴史の間には何度も谷が削られ海にまで達して氾濫して來たはずだ。
芦田川で水害が起こった年には近距離の田尻にも少なからず災いはあったろうと思われる。たとえば大正8年(1919)7月5日、昭和20年(1945)9月18日、昭和35年(1960)7月8日、昭和37年(1962)7月5日、昭和40年(1965)7月23日、昭和42年(1967)7月9日。これらは芦田川水系での災害記録なので、その全てで佐曾谷川に異変があったとは限らないが、昭和42年7月の水害では田尻にも大変な災難だったことが殿休公園の石碑に記されていた。
(3)佐曾谷川に蓋がしてある白い部分の際までが県道と市道の境界線と考えられる。此処を起点にして9m60cmのところが昭和3年には海だった。T辺さん宅の北隣の駐車場向かい側に出っ張りがあって海に下りる階段があった。鉄道はその手前からカーブが始まって県道側(センターラインより西半分)に近寄り始める。階段の出っ張りは鉄道護岸の補強にもなっていた。階段の出っ張りの手前で県道と鉄道を合わせた幅は10m20cm程あった。
(4)谷川と県道の歩道が交差する所に側溝があってこれが県道の西端と思われるが、この辺り(佐曾谷川より北)からは県土木の境界プレートがない。何度か災害復旧を繰り返している間に民有地と鞆往還の境界があいまいになって被っているのだろうか。
(5)谷川沿いの坂道の先で今まで2本あったセンターラインが1本に合流している。現在川の突き当たりはあんず公園になっていて、公園内に川の続きの大きな排水桝がある。
谷川の川蓋(三叉路で歩道はない)から実測したところ、防潮壁から65cm(手前)の(歩道の上)辺りが海だったようだ。(昭和3年当時)県道の幅は4m80cm、鉄道敷地は4m50cm。その間に側溝と境界の法面や水路も含む。4mちょっとしか測れないメジャーで歩道や縁石からセンターライン、さらにセンターラインから側道白線とか、白線から防潮堤と何度にも分けているので必ずしも正確とは云いがたい。数ミリや数センチを云々できるほどではないが、昭和3年の海岸線が佐曾谷川の氾濫後も現在の護岸と同じ場所ということはありえないので、(堤防よりも)数十センチ歩道側だったことはまずまず妥当な線だ。

para1002n(ぱら仙人)


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