道三川(広島県福山市)をよみがえらせる会が再び清流を取り戻す運動に立ち上がった。(今から30年ほど前の話です)再び蛍が飛び交う水辺にしようと天然の雨水の流入以外は生活水を流さない取り組みを始めた。
・1987年に地域住民から「ほたるの舞う美しい川を目指す」という要望から自然の石積による「ほたる護岸」を一部整備したのが始まり。
・行政と住民が一体となって川の快適な環境づくりを図る。
・安らぎと潤いを与えられる親水空間の整備による水と人との触れ合いの回復。
整備期間1990年度(平成2年度)
〜2001年度(平成13年度)
整備延長1.1km (道三川2.4kmの内)
事業費6億7000万円
道三川をよみがえらせる会は下井手川からの分水を願い出た。下井手川は灌漑農業用水の水路なので、川下の新涯、川口、簑島までの農家の水を預かっている。江戸時代から続く水利権は、長い水の奪い合い、過酷な水管理の歴史を受け継いできた。
道三川の川筋には松浜町のポンプ場、入り江の海水に触れるまで、一反の農地もない。いわば福山市街地のど真ん中を流れていた川だ。
「今更、川を蘇生するからと云って、農地もないところに常時垂れ流しの水をよこせと云われても、ワシらの目の黒い内は勘弁してもらいたい。前例のないことだから」と断られたとか。
下井手川の道三川への取水樋門 正面の道路右側に道三川に続く水路がある

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@ 実際に道三川に繋がっている(下井手橋畔の)取水樋門に行ってみた。下井手川の水位が一定以上にならないとたとえ樋門を開けても自然には道三川に水を導入することはできない構造になっていた。道三川に水を引くにはポンプを据えるか、道三川側の水路を掘り下げて入口の堰を低くする必要がある。いずれにしても現状では増水時以外に自然には流入しないような構造にわざわざしてあるようだ。

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A (下井手)橋の上から南を見た様子です。右側は地吹町公園(昔の児童公園)です。正面が下井手川。奥に見える橋が鴨原橋。奥の橋(鴨原橋)が鞆鉄道跡です。
鴨原橋のすぐ手前に橋台の石積み跡が残っています。これが鉄橋の跡と書いてある本がありますが、石は斜めに積んで坂になっていますから、のちに川に降りる坂道として再利用していたようです。下井手川から傾斜が始まって野上土手までの距離はあまりありませんから、鉄橋の下をくぐることはできません。土手のすぐ手前が2mとして、ここ(一路南の鴨原橋)なら、鉄道と同じ高さの道路だったと思われます。
鉄橋の橋脚西岸に流された小屋が引っかかってその対岸(東岸)上手から芦田川の堤防が決壊し、市内が大洪水になったことがあります。(福山市水道局駐車場フェンスに掲げてある案内板)
この貧弱な設備がその時流されなかったのが不思議です。決壊箇所のすぐ下手の陰は流れが逆流して力が打ち消し合って残ったのか、当然流失したけれどもすぐ再建されたのか。現存の石積みを鉄橋の跡と断定するには、野上町民館の壁に掲げてある図面との位置的なずれが気になります。残っている橋脚土台とされる石積みはセメントで固めてありません。一個一個の石が緩んでバラで積んであります。振動にもずれない橋脚土台では見たことのない工法です。
鉄道用地だった上にお堂を建て替えたり、列車に当たるかもしれないぎりぎりの場所に明治二年からあったお相撲さんのお墓を移動して立てたりするでしょうか。(「鉄道廃線跡を歩く」宮脇俊三編著)に書いてあることが正しいかどうかは、即断が難しいところです。
B 鴨原橋から本來の水路より一路南の道路を道三川まで戻ってみました。江戸時代の道三川跡を埋めて道路にしたところかと思ったからです。可能性としてはありですが、確証はありません。昔からの道路が途中まであって、単なるその延長の新設道かも知れません。正面が道三川にかかる最初の橋、地吹橋です。欄干にはホタルのステンドグラスが嵌めてあります。意気込みが伝わってきますが、ホタルまではまだ無理です。
C 下井手川から直接水を引けないので、水源の井戸を掘って地下水を汲み上げています。道三川が北上していたころの暗渠の遺構の一部と思われます。奥にポンプで汲み出している井戸が掘られています。
道三川の水源井戸を掘ってポンプでくみ上げるようにしたのが現在の道三川水源になっています。一つの井戸が枯れても水源を失わないように周辺にいくつもポンプ井戸があるし、途中にも水源井戸が何カ所か掘ってあって、常時ポンプが稼働して清流が作られている。霞小学校辺りの流れには大きな鯉が何匹も泳いでいる。
前回作成した江戸時代と戦後復興直後合成地図を基に現状に近い地図上に眼には見えない過去の様子を再現してみました。同じ場所に、時代によってさまざまな文化遺産、産業遺産が折り重なって存在します。現代の道路上を散歩しながら遠い昔の人々の暮らし向き、行きかう足の運び、会話の声、吹く風、いろいろなことに思いが及びます。
昭和40年の地図に江戸時代の道三川やそれぞれの時代の遺構遺産を重ねてみた

49年前の地図に道三川北上の跡を示す水路が描かれていました。1965年、1969年のゼンリン住宅地図にも同様に北上道三川の名残を示す水路が描かれています。
そのうちのもっとも古いものを使用して様々な時代の産業遺産、文化遺産の位置を重ねてみました。
これらよりもっと古い地図には水路が描かれていません。エミちゃんが子供のころ泉龍寺の前にあった川を記憶していますから地図には描かれていないだけで川のあったことは事実です。位置関係の目印に亊業所だけを残して個人宅の名前は消しておきました。50年も前ですから市街地の居住者は交代が激しく、商店、亊業所も少し軌道に乗ってくると、より表通りの条件のいいところに移転したりして、変化は急激で元の場所にはないところが多いです。まさに群雄割拠の陣取りゲームの様相です。
福山の図書館にある各年代の住宅地図はほとんどコピーして手元にあります。鞆鉄道の跡を調査していたころ法務局に通ったり、図書館に通い詰めたりして沿線の地図を片っ端から収集しました。一軒一軒の個人名を消す作業は大変手間がかかってすべての地図は出せませんが、比べて変遷の跡をたどるのも興味の尽きない課題です。

para1002n(ぱら仙人)
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