今日の一句は「人は人 昨日は昨日 蓮は蓮」
「きのうはきのう あすはあす」を「はすははす」に置き換えただけの駄洒落、言葉の遊びだった。泣いている捨て子を見た芭蕉が「お前は自分の運命を賭けてそこで一生懸命に泣け」そのまま通り過ぎて行ったそうだ。
捨てられたこどもは泣くしかない。方法がない。行場がない。逃げられない。自分の置かれた場所で、自分のできることを、自分の一生をかけて、力尽きるまでやり抜くしかない。役にも立たず生まれた運命なら、力尽きて死んでしまうのもやむを得ない。この世に何事かを成そうと生まれたのなら、きっと助かるはずだ。お前はこの場でお前の生涯を賭けて泣け。
そんな厳しさの俳諧の道。単なる言葉の遊びでは申し訳ない。実際に自転車に乗って、この目で蓮を見に行くことにした。
古代鬼蓮が確認された千塚池
広島県福山市蔵王の千塚池。江戸時代に福山城下から神辺、井原、矢掛を経て上方へ向かうお侍一行は、奈良津から丸池とこの千塚池の土手を通って、折り返し、辻堂の脇を通って、千田蓮池の傍の二つ川の切通しから神辺へ入っていた。
江戸時代のお侍も通った千塚池の土手

畑仕事のAさん「数年前に古代鬼蓮の自生地として認知されて、みんなで保護したんですが、最近は見んね。」
帰り支度のBさん「稲を作らんようになって、水を使わんけぇ、年中水がある。昔は干上がって、溜めての年間サイクルがあったが、環境が変わったけえなあ。芽が出てこんようになった。」
岸辺近くに普通に小さい蓮の葉がちらほら。釣りをしていた少年も、「古代鬼蓮は話に聞いたことはありますが、見たことはありません。」
古代鬼蓮は、絶滅したかもしれない。死に絶えたかもしれない。人々は手厚く保護しようとしたのに。農業が様変わりしたからなのか。
単なる言葉の遊びではない、重い意味が感じられるようになりました。やっぱり現場に行ってよかった。人が何をしようが、昨日までがどうであろうが、何百年も何千年も何万年も命を繋いできた蓮はきっと池底のどこかで復活の日を待っているに違いない。現場に立つことで、この句は、旬の採りたてになったし、その場に居合わせた酷(むご)さも、生きている幸せも、より深く強く、感じられるようになった。

para1002n(ぱら仙人)
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