
森首相、小泉氏に自重促す
自民総裁選「参院選後」を示唆か
朝日新聞14頁2001年3月25日付
【イルクーツク(ロシア)24日(旧暦二月三十日)】森喜朗首相は24日(旧暦二月三十日)、ロシアのイルクーツクに向かう政府専用機内で、森派の小泉純一郎会長が総裁選出馬に意欲を見せていることについて「小泉さんに『慎重に熟慮しなければいかんよ。我が身だけの小泉ではないということをよく考えて行動してほしい』と言っている。いずれ話し合って決める」と自粛を促した。党総裁選については「幅広く党員・党友が参加できる仕組みを考えている」と述べ、近く党執行部に考えを示すことを明らかにした。

小泉純一郎氏は郵政民営化を旗印にして、後に首相になる人物である。そのことはまたの機会に譲って、ここでは、何故。旧暦
二月三十日に日本の首相がロシアのイルクーツクに向かう飛行機の中にいるのかという点である。
端的に云うと、1956年の日ソ共同宣言で両国の戦争状態を終結させ、平和条約締結後に、「歯舞諸島と色丹島(国後・択捉については両国で見解が異なる)を日本に引き渡す」と規定し、両国国会がともに批准したことが、45年経っても、いまだに何ら進展していないことを確認しに行っただけだ。
そもそも小生が旧暦
二月三十日を面白がるようになった切っ掛けが、150年前に始まった日露国境交渉だった。最初の交渉に当たったのが筒井肥前守、川路左衛門尉、荒尾土佐守、古賀謹一郎。この代表4名に同行したのは、
川路支配下、中村為弥、菊地大助、伊三治、日下部友之丞(宮崎只太郎)、篠原友太郎、小比賀林蔵、石川周蔵、森逸八、松村量右衛門、富塚順作、安井九十九、秀三郎、箕作阮甫、日笠甚之助、下山彦一郎、武田斐三郎、宗兵衛、平五郎、勘太郎。
荒尾支配下、長坂半八郎、長持亨次郎、斎藤栄助、関口彦太郎、小嶋源兵衛、橋本鉄四郎。
古賀配下、増野禮蔵、片山仁一郎、窪田宮蔵、川副轉、江越愛吉郎、八木包蔵、松隈謙之丞、高畑五郎、井阪行蔵、順蔵、仙蔵、専助、弥之助、伊三郎、六助の15名。これに各宿ごとに、御朱印分の人足5人、馬3疋に、御証文分の賃人足7人、書物長持人足1人、駕籠4人、具足櫃2人、合羽籠1人、竹馬(つづら)1人、引き戸駕籠3人、両掛け(天秤棒)1人が加わって、総人数は2倍になる。
筒井のお殿様一行は記録を入手できていないので不明だが、道中師、中間や警護の鉄砲隊を含めて総勢2〜300人が4隊に分かれ、40日掛けて長崎に向かった。日本を防衛したこの方々のご子孫の皆様、感謝御礼申し上げます。

初回はロシア側の言い分をことごとく退けて江戸に凱旋したのであった。しかし大勝利の帰路、アメリカと交渉に当たっていた林大学頭は二度目の交渉で無様にアメリカに押し切られた。アメリカはうまくいった時のことしか宣伝しないが、ペリーの7年前(1846年)にアメリカ特使としてビッドルが通商を要求しに浦賀にやって来て退けられている。ペリー自身も初回の交渉ではうまくいかず、上海に引き上げて出直して、3度目の正直を掴めたのであった。歴史は正しく伝えたいのう。
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