2005/11/10

実ること、そして冬が来ること  雑感

 工房脇にシュガープルーンの木があります。今年は随分たくさんの実を付けてくれました。バケツに3個分も収穫できました。しかも美味しかったのです。生食するだけでは食べきれず、ジャムも作りました。パンに塗ったり、ヨーグルトに入れるのですが、その時さーっとプルーンの木の成長過程を思い起こします。
食べることもさることながら、この思い起こすわずかな時間が楽しみなのです。

 多すぎる枝を払い、根元に肥料をまいただけで、後は何にもしなかったのですが、秋を前に立派な実をつけてくれました。

 そしてつい少し前まで採りそこねた一粒のプルーンが枝に残っていました。その一粒を窓から眺めると言う楽しみのオマケが付いていたのです。今日もまだ残っているなと密かな確認をする毎日。最後のひと葉という物語なども思い出したり..どんな変化をするのだろうかとじっと見詰めたり、いつかは必ず落ちるんだよな..と思ったり。ひょっとしたら、この実だけは落ちないで残るのかもしれないと考えてみたり..

 同じように窓から覗いた時、一粒のプルーンの姿が見えなくなっていました。あっ、やっぱり落ちたんだ..どのあたりかなと思いつつも確かめることはしませんでした。

 あの実は、たいそう甘くて美味しかったんだろうな..。晩秋に残された一粒の実は、人生の流れと収穫の時期を密かに教えてくれたような気がしました。いろんなことがあって、もう残り少ないなと感じる少し前に熟した実になるのだろうなと思います。

 カチカチの青い実の時には、食べられない。様々な体験を経て、雨風に耐えた実だけが残され熟成のときを迎える。その実を与えられたものの命となり、喜びとなり、生かす。早く落ちた実もまた、地上の生き物の食べ物となり、自らを生みだした木の養分となる。

 こういう流れをみていると、人間はまだまだ未成熟なんだなと感じます。自分の人生を素朴に受け止めることができずに、随分と不平不満を漏らしたり、あれこれと不安を口にしたり、あまり意味の無い心配をしながら生きているな〜と感じます。思索し、論理を展開し、議論しながら、ようやく一粒のプルーンの実になれるか、なれないか..という状態かもしれません。

 尊敬され、評価されている人物がたどり着くのは、脈々と命を繋いできた自然の営みとの一体感なのかもしれません。生かされている意味も、答えも十分に与えられているけれど、自分がそれに気付くまでには、必要なプロセスがあるものだなと思います。

 せっかく命を与えられているのですから、せめてそこそこの味のプルーンになって誰かの口に入るか、虫の餌になるか、土の養分になれるかも知れないという希望を隠し持って冬を迎えられればと思います。
 
 そういえば、窓の手前にあったハナミズキの葉っぱが、申し合わせたようにハラハラと舞い降りていました。やがて降り積もる雪の重さも手伝って、残らず葉は落ちてしまうでしょう。プルーンの実の落ちるところを見たであろうハナミズキの葉も落ちて..さて,いずれは自分が落ちる時が来るのでしょう。

 
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