2005/12/15

過去の意味  ラブフルート

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 過去とは何なのか..それはあまりにも漠然とした問いかけかもしれません。
ですが、何故か今回はそれを巡って感じたことを書き留めてみたいと思っているのです。過去とは何かという問いに対して、それを「過ぎ去った事実」と言い換えてみようと思います。そこには二つの事が浮かんできます。

 「過ぎ去った」という事と、「事実」と言うことです。

 過ぎ去ったと言うとき、それが明確に処理され、復元されたり、引き戻されることのないものと、現在にも何らかの形で関わり続けているものに分けてみると、整理がつくかもしれません。

 ところが、整理出来そうなのに、うまくいかないことに気付きはじめます。それは事実の意味と関係があります。

 自分が、自分なりに過去の出来事を意味付け、処理すること。それは事実の一面だけを捕らえているように感じます。悪く表現すれば、自分に都合の良い解釈をしてしまうと言うことです。或いは逆に、殊更に自分を卑下して、負いきれない罪悪感を抱き続けるかもしれません。

 人は生きている限り、自分以外の存在と何らかの関わりを持って生きていると思うのです。自分は思わなくても、相手は何かを感じている。或いは、自分は感じていても、相手は気付いていないということもあります。

 少し面倒な表現ですが、それぞれの内面の単純な違いが、事実の意味を複雑にしていくのです。気の強い人は、引き起こされた状況を自分なりに解釈して、事実の意味を処理してしまいます。気の弱い人は、そういう人に押し切られてしまうでしょう。気の強い人同士だと、お互いに抵抗し反発しあうでしょう。巧みな言い逃れや理屈、或いは事を単純化して処理しようとする..

 こうした積み重ねによって人生は移り変わっていくのですが、経験した様々な出来事の意味をどう受け止めていくかによって、現在から未来への繋がりが違って行くのは確かです。

 意味の受け止め方、自己流の対処の仕方が過去を作っているという表現は、ある程度理解できるかと思います。そうなると、過去の事実と言う言葉には、体験してきた人生の意味を、自分はどのように解釈してきたかという自問が必要になるでしょう。自分の心の姿勢はどうだったかをじっくりと省みることで過去は変化しますし、現在の意味も違ってくるでしょう。

 自分は正しいことをしているし、してきたと考えていけば、その心の姿勢が過去を意味付けるでしょう。自分は間違っていると感じていれば、根深い罪悪感をひきずる事になるでしょう。大抵は、その両面を持っているのですが、殆どの場合、自分なりに都合の良い解釈をすることで生き延びようとしてしまうように思います。

 なんらかの意味で、自分を肯定する部分がないと人生に行き詰まってしまうのですから...さらに言えば、自分は自分なりに極力善良で、正しいことをしようと努力し、実践してきたと思っているものです。

 そういう感覚で生きている自分が、他の存在と関わると、面倒なことが起こります。自分の感覚、自分の感情と、他者の感覚や認識が違うと、たちまち自分の言い分が顔をもたげるのです。この悲しくも、執拗な心の叫びは、どちらか、あるいはお互いが傷つくまで続くのです。仮に、そこに静けさが戻ってきたとしても、それぞれの心には明らかな事実、傷が残り続けるのです。沈黙や静けさの背後にはいつか顔を出すだろう自我の叫びが潜んでいるのです。

 その傷が本当の意味で癒され、叫びが退散しない限り、皮肉にも新たな傷を加え、さらなる叫びが起こり続けるのです。このとき自分自身が受けた傷のことがまず気になるとすれば、その段階で事実は曲げられていくでしょう。自己愛が心を支配している限り、事実の意味は偏り続けるのですから...。

 人生の根底にある問題の一つは、こうした自分自身の心の姿とどう向き合い、どう変わっていくかにあると言ってもいいでしょう。さもなければ、過去の意味がゆがんだまま、自己愛と自己憐憫を両脇に抱えて終わってしまうかもしれません。それは随分勿体無い旅になるでしょう。

 ラブフルートとの出会いが意味するものの一つは、自分自身の心の姿に気付くことです。それは手にしようとしているところから始まっています。厳密にはそれ以前の人生の状況から始まっていたと言ったほうがいいかもしれません。

 それが単なる楽器、音楽のための道具、自己表現の手段と感じているとしたら、ラブフルートを吹いてもさしたる変化は起こらないでしょう。一時的な好奇心で終わるでしょう。それはラブフルートに特別な秘密が隠されているという意味ではありません。そういうことになれば、ラブフルートがらみの宗教が生まれかねません。

 人生の背後に潜んでいる意味を知りたいと願うそれぞれの心の旅路があって、ラブフルートとの出会いの中で、その意味に気付き始めるということです。ですから、ラブフルートでなければならないのではなく、ラブフルートを通して自分の心に気付き始めるという出会いが待っていたということなのです。ですからラブフルートが、いわゆる音楽をやるためには制約が多いことは、見事な知恵だと思うのです。

 目に見えないけれど存在する私たちの心に、目に見えないけれど存在する力が働きかけて、それぞれの旅を支えてくれる。そういう道があることに気付き始めるためのプレゼントの一つがラブフルートということになるでしょう。

 そして見えないけれど、確かに与えられている道があることを知り始めたときに、自己愛というちいさな世界で生き延びようとしなくても大丈夫なんだと気付きはじめるでしょう。そして過去の意味も今与えられている様々な関わりの意味も自然に変化していくことと思います。変わるために、何かをするのではなく、変わることが喜びと感謝になる生き方に気付き始めるのだと思います。
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2005/12/18  17:27

投稿者:ちま

印象的な夕焼けにひかれてしまいました。

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