2011/3/2

2。22春気分  雑感

  この22日にKOCOMATSUで開かれたなんとなく春気分の集まりは小樽のKさんの呼びかけで始まりました。片手であまるほどしか集まりそうもないけど、それなりにということでスタートしました。

 屋根の雪がボタボタ落ちてくる暖かめの一日。美しいステンドの光がゆったりと移り変わっていく中でテーブルを囲んでの昼食。食べ物を広げ始めると、予想を越えてテーブルがいっぱいになりました。年初めの「吹き初め」第二弾といった感じでした。

 人と人が、自分であることに気負いも不安も戸惑いもなく触れ合える。そこに起こることに、静かな信頼と喜びを持っている。そんな時間や空間の中に居ること。それを豊かに感じられる、そこには命を与えられた者たちの見えない饗宴があるのだと思います。

 何をしようか、どうしようかと心をそわそわさせ、気遣いだけでいっぱいになる。そういう迎え方もあるのでしょうが、心の根元に人生に待ち受けている事への信頼がなければ、多分、大変だとか、つまらない、仕方ない、頑張らないと、ということになるのでしょう。

 この日は、ちょっとフルート作りのことを気にしながらも、夜まで参加の方たちのために久しぶりにカレーとデザート作りに集中。生きくらげの卵炒めと煎茶の佃煮も追加となりました。

 苦痛や苦悩や孤独を通る事は、人生に待ち受けているとても貴重なプレゼントなのだと、どこかで本当に気付く。そういう方たちとの出会いには、静かな繋がりが生まれます。命がある、誰かと時間や空間を同じくする。そういうことが生きていく土台だと気づくまでのプロセスは、それぞれに違ってはいるのですが、いつか深いところで繋がるように思います。

 そのプロセスを確かに辿った人は、儀礼的でも社交辞令でもなく、心からその存在を受け止め愛することの大切さを知り、本気でそういう道をたどり始めるでしょう。その存在、命そのものを愛すること。逆にいえば、自分がそういう存在として受け止められていると知ること。これが自分たちの命を繋いでいく力になるのだと思います。

 大切なのは、その振る舞いが純粋で透明なことだと思います。それはそうしようと認識して実現するものではなさそうです。まずは認識と実質のずれに気づく事、ずれを生じさせているものが何なのかを明確にすることから始まるのかもしれません。

 自己矛盾を直視し、誰かや何かを持ち出して自己弁護することの虚しさを知るまで、人はそれぞれに相応しい時を待つことになるのだと思います。

人を知ってわが身を知る、もしくはわが身を知って人を知る。この表現には微妙なニュアンスはあるものの、どこまでが自分そのものと言えるのか見つめてみるのは悪くなさそうです。よくよく考えれば、純粋に自分であると云える要素は少なく、様々な要素が複雑に混じり合った自分が変化しながら生きているような気がします。

 それは、今回の集まりのように、次々と色んな人がやってきて、様々な事を表現し合ったり感じたりしながら、時間が流れていき、それぞれに影響を受けあっているのを見ることで、よーく分かります。自分が相手をどう捕らえるか。それによって、相手が影響を受ける。そう考えると、自分がどのような生き方をするかは、とっても大切だと思います。そんなことを、ふんわりと感じる一日になりました。
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2011/3/11  2:10

投稿者:SHO

ともこさん
また来てくださいね!
気の向くまま、気軽にKOCOMATSUでくつろいでください!

2011/3/3  15:00

投稿者:ともこ

貴重なお時間を本当にありがとうございました。SHOさんの手料理に脱帽した時間でもありました。本当に、ゆるやかでありつつ不思議な流れでした。少しずつ日が長くなりました。またKOCOMATSUを訪れる日を楽しみにしています。

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