2013/3/8

手カンナと手ヤスリ  ラブフルート

手作りのラブフルートが出来上がるためには目に見えない様々な工程があります。機械で一気に削りあげるのとは違い、あまりに不合理と思われる手作業が延々と続きます。

勿論、時間をかければ良いということにはなりませんが、一見不合理と思われる行程がとても大切なものになると感じています。

アメリカのサイトでは一度に何本もラブフルートが形成できる機械なども登場しています。自動車や電化製品の流れ作業のイメージと重なる感じです。

なぜ、早く大量に生み出そうという考えに至るのでしょうか?その時間の感覚が、社会に様々な弊害を生み出してきたように感じます。それは量産されるセラピストにも繋がる一連の価値体系を持っているように思えます。

ひたすら加速される構造は、いずれ著しい崩壊を招くことは誰の目にも明らかです。それでも一緒になって駆け回る。そういう姿はいろんなところに見え隠れしています。忙しすぎる人たちは、どこかで自分の基盤を見直さなければならないように思います。

結果を急ぎすぎる傾向は、その場でアンケートやシェアをするというスタイルにもしばしば見受けられます。まるで、いま仕込んだ味噌を、さあこれで味噌汁を作ろう!食べて見て!飲んで見てどうでしたか?とすぐさま問いかけるような感じです。

熟成する時間、成熟に至るプロセスを飛ばして、結論を求める。これが当たり前の流れになることの危険性と愚かさに気付くのは難しいのかもしれません。それこそ行き着くところまで行って、ようやく気付くのかもしれません。

それは言葉のやり取り中心の世界で顕著に見られるように感じます。口先だけ、情報や知識だけで、とりあえず成り立つ世界には、様々な矛盾と欺瞞が引き起こされるのですが、それを問題にし始めると現状が成り立たないと感じるのかもしれません。

僕が何日も汗水流して木を削り、穴を開け、音を作るために地味な作業を繰り返してようやく出来あがるラブフルート。この工程を言葉で説明すると、ものの10分もかかりはしません。言葉や知識と現実。この関係性を熟慮する必要があるように感じます。

短時間にささっと削りあげたラブフルートを手にしても、その行程が合理的でスピーディーであればあるほど、僕自身との繋がりは希薄になります。思いとは無関係に、きわめて合理的にラブフルートが出来上がってしまうとき、とても大切なものを失ってしまうように思います。一人の人と親身に接するように木を削り、音の響く時を待つ、その流れがとても大切に思います。

これを人との関係に当てはめるとよく分かります。多くの人と関わったことなど数量をステイタスにする時なども、皮肉な逆説的現象が起こっているように思います。次々と発信し、瞬く間に消え去る繋がり方には危うさがありますが、これから暫くはこうした流れが続くのでしょう。

一人の人間が、限られた時間の中でなし得ることは決して多くはないでしょう。だからこそ、与えられた時間を大切に、お互いの存在を大切にするのだと思います。ところが、合理的で素早い応答に慣れてしまうと、人はどこかで自分自身が存在する意味を勘違いしてしまうかもしれません。

ワンクリックで何百人、何千人、何万人、何千万人、何億人に情報が送り出される時代。それが、習慣化して行く僕たちが、どこに目を向け、何をどんな風にしていくのか....

そんなことを思い巡らしながら、黙々と手カンナと手ヤスリで様々な樹木たちと対話し、一本のラブフルートを生み出す時間が流れています。

野鳥たちがバードテーブルに目もくれなくなる春までに幾つかのラブフルートが生まれてくれるのを楽しみに工房にこもります。演奏の時は留守にしますけれど....。

































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