2014/5/9

愛の笛に携わる真意のカケラ  ラブフルート

愛の笛が手渡される時、そこに起こったこと。それはとても重要なことなのですが、単なるエピソードとして読み過ごされることが多いように思います。

小さな愛の笛にまつわる伝説に、それほど注意を寄せ、真剣に捉える人は少ないでしょう。神話学、あるいは心理学的な視点の有る方は、それなりに捉えることもあるかとは思います。

若者は聖なる輪の中心にある鏡の光に当たって気を失います。これはとても大切なイニシエーションなのですが、それは特定の年齢になればかならず通過する類のものではなく、個々の人生の特定のプロセスの中で待ち受けているものです。

自分の本質的な実態を浮かび上がらせる聖なる鏡。聖なる輪の中心にある鏡の光を浴びた時、到底目を開けていることなどできず、気を失うほどの衝撃を受ける。

その後に初めて愛の笛が手渡されるのです。そも意味は、一人一人が自分自身の事として真摯に受け止める時まで封印されているのです。人を愛すること、心の思いを表すこと。そこに開かれた道を歩むこと…。

ラブフルートは、様々な形で、それを求める方々の手に渡されるのだと思います。必ずしも、一様なプロセスを辿って手渡されるわけではなく、その心の歩みに相応しい流れとともに愛の笛が手渡された真意を知らされるのだと思います。

僕がラブフルートを作り続けている本来の意図は、笛の製作で生計を支えることではありません。そこに隠されている魂に必要なメッセージを、必要とする方にお伝えすることです。それは、僕自身にとってとても重要であり、存在を支える大きな力だからです。

あえて手作りで、時間をかけて、ひとりひとりの愛の笛を作る真意は、殆ど口にしたことはありませんし、流れ去るデジタル文字で伝わるとも思っていません。

仮に生活のためというだけであれば、フルートのバイヤーになったり、人を使って量産すれば済むことです。巧みに宣伝して広げるためにエネルギーを注げば良いのです。

しかし、そういう生き方は既に意味をなさないのです。何が自分という存在を生かし、支え、その道が示されるのか…。なぜ、いま自分がラブフルートとの関わりの中で生かされているのか…。

それはデジタル文字で書き記すものでもなく、仮に真摯に自らの道を歩こうとする人が求めるならば愛の笛と共にそっとお伝え出来ることがあるかもしれません。自分自身の心の内側の事実として、最期のときまで見詰め続け、死の扉の向こうで確かめることになるのでしょう。

僕が生かされている間に、どんな風に聖なる輪の中心にある鏡の光を浴びた方々の手に愛の笛を手渡せるのかは分らないのですが、そこに秘められた生命の知恵を巡って存分に語り合える出会いがあれば心は歓喜の中で震えるのでしょう。

そんな出会いがあろうとなかろうと、降り注ぐ光のように僕たちを包み込んでいる恩恵の中で、許される限り作らせていただけたなら幸いだと思っています。クリックすると元のサイズで表示します
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