2006/3/30

『死者と生きる中世』  お勧めの1冊

パトリック・ギアリ著,白水社,1999年.紹介記事には『中世西欧社会において、死者とは生者にとってどんな意味をもっていたのか。死者と生者の間での贈与交換、聖遺物礼拝、聖人伝研究を通し、封建社会における死生観の変遷を考察する』とある。

この著者は、様々な文書や伝承の解析のみならず、考古学的調査や図像史料なども踏まえ、実証的に研究を進めています。 これは彼が大学院までの教育をアメリカので受けたことによるものかもしれない。例えばこの様な記載がある、

『クルト・ベーナー(1960年代)は「聖ウルフラム伝」の記載で、ラートボート公が洗礼を受けようとした際、司教から「洗礼を受けなかった祖先たちは地獄に落ちる」と聞いて、「先祖なしでは仕方がない」と言って洗礼を取りやめた伝承(←これは有名な話!)から以下のように述べた。「キリスト教がもたらした大きな変革とは、死者と生者の連帯を切断したことである」

しかしこの著者は、さまざまな考古学的調査から彼の解釈に疑問を呈し、ラートボート公の件はより政治的なものであったとの解釈を試みている。 その考古学的事実としてしばしば布教以前の一族の墓の上に礼拝堂が建てられたことを挙げている。 すなはち彼は「洗礼を受けた後でも布教前の先祖たち墓に対する姿勢が断ち切れることなく連続していることを示している」と解釈した。(p42-44) 確かに当時の洗礼はクローヴィスを例にあるように個人の洗礼というよりは一族全体の洗礼との意味があったと聞いているのでこの考えは説得力がある。 

5章「聖人を辱める儀式」では、カソリック(キリスト教)のバックグランドを持たない者にはやや退屈だが、その実態の部分に入るとかなり興味深い。特に筆者が「辱めの儀式が修道士らの一種のストライキであり、社会に混乱を引き起こし、修道院に敵対する者を調停のテーブルに着かせる為に機能した」と結論するとともに、この儀式が<聖人に援助を強要!>する為のものであったこと。 p110-120

この儀式が11〜12世紀において共同体に密接な関係をもつ守護聖人を仲介として超自然的なものとの直接交流を劇的に行ったもので、同様な儀式は象徴体系を異にしながらも農民によっても行われた、との記載は興味のあるところ。 やがて13世紀において教会のヒエラルキーが確立するにつれ、この儀式は教会によって禁止され、衰退していったとのこと。 

また「ショルジュの紛争」 のところではグレゴリオ改革について面白いことが書かれてあった。p135-161  11世紀末プロバンス地方の公権力の空白に伴って引き起こされた、修道院と封建騎士それに司祭、伯を巻き込んだ長期にわたる紛争。当時のグレゴリウス改革というものが単に宗教上のものにとどまらず、社会構造そのものの変革を伴ったものだということが判る

これを読むと当時の人が、我々とは異なる生死観、世界観の中で生きていたことを感じる。 呪詛や聖人の辱めは、現代的メンタリティーの世界に生きていたら機能しない。 史料によれば、生きているうちは(修道院に敵対する者も)知らん顔していても、いざ終油とかになると、慌てて和解を急いだりしたよう。 また修道院の方もそれが判っていて、ちゃんとタイミングを見計らっているようでもある。 なお破門の権限は司教にしかなかったので、修道院としては呪詛とこの儀式が切り札だった。

著者はこのような争いを、11〜12世紀にかけての社会の変化に伴う、構造的なものと捉え、様々な局面での双方の行動の解析に意義を見つけている。 こういった態度はいかにも現代的というかアメリカ的?今日の西欧中世史学界でどう評価されているのか、是非知りたいもの。
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