4/15第15回嵐の中の一門
近衛天皇(1138−1255)が久安6年1150年に元服すると、1月に頼長(よりなが山本耕史)は多子(まさるこ皇后)を、2月に忠通(ただみち堀部圭亮)は呈子(しめこ中宮)を入内させ、2人の仲は修復不可能になります。9月に激怒した忠実(ただざね国村隼)は、源為義(ためよし小日向文世)らに命じて摂関家の正邸である東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、氏長者の地位を頼長に与え、忠通を義絶しました。
この2人の対立が鳥羽上皇の崩御の1156年に、崇徳院(井浦新)と雅仁親王(松田翔太、後白河天皇)、源氏、平氏を巻き込んで保元の乱となります。
家盛の死後、娘は清盛の第一子重盛の養女となり、平治2年1160年に筑紫の原田種直に嫁ぎます。原田氏は清盛と私的主従関係を結び、大宰府における平氏政権、日宗貿易の代行者となります。
西行(86番「なげけとも」)は、出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、1144年ごろ奥羽地方へ旅行し、1149年前後に高野山に入っています。
「とりわきて 心もしみて冴えぞわたる 衣川見にきたる 今日しも」。
奥州には2度行っており、この歌は2回目の時のものか?
(wikipediaより抜粋)
視聴率がどうのこうのと言われているようですが、
そんなの関係ねぇ!
今日の忠盛と清盛のやり取りは圧巻でした。予告編の第16回の清盛の顔が変化したように感じましたが...。はてさて。