■函館の「バル街」に関する記事ですが、少し違う角度から今日は投稿したいと思います。先日の投稿は、「
公共性」という視点から「バル街」について考えてみましたが、今回は、「
社会関係資本」という視点から考えてみたいと思います。少し、遠回りになりますが、お付き合いください。また、「バル街」って何?という方たちは、申し訳ありませんが、すでに投稿した記事「函館の『バル街』(その1・2・3)」および、コメントをまずお読みいただければと思います。
■昨日、総合地球環境学研究所で、社会関係資本の社会調査にかんして研究会議があったことはお伝えしました。会議が終わったあと、この調査の中心になって頑張ってくれているO君が、「
社会関係資本については、
鳥越先生も書いてらっしゃいましたよ」と、あるエッセーのコピーを渡してくれました。O君は、政治学の立場から環境問題(特に流域管理)に取り組んでいる京都大学の博士課程の大学院生です。丹念に情報を収集していますね〜、本当に感心します。
■さて、O君のいった鳥越先生というのは、じつは私の先生でもあります。ただ、ここはBlogなのであえて鳥越さんと呼ばせていただこうと思います。鳥越さんのエッセーは、大阪ガスのエネルギー・文化研究所がだしている季刊誌『CEL』(66号・平成15年9月号)に掲載されたものです。「ソーシャル・キャピタルという発想」というエッセーです。ここでいう
ソーシャル・キャピタルとは、社会関係資本のことです。では、このエッセーのなかで鳥越さんは、どのようなことをいっているのでしょうか。
■鳥越さんは、一昨年、中国に半年弱滞在し、そのあとはグァテマラを視察しました。とくにグァテマラで感じたことは、その国の伝統が「観光化された伝統」というもになりがちだということです。観光のために“伝統”が外見だけ残ってしまい、「内実は順次捨てられることが多い」と述べています。その理由として、ユネスコに勤務した服部英二氏の指摘(第三世界の悲劇は伝統をもつ民族が伝統を失った民族(西欧:過去と伝統との断絶を経験した)によって価値的に下位におかれたこと)を引用しつつ、「
下位におかれたことによって、自分たちが継承してきたものは、自分たちが本気で守るほどのものではない。たまたま観光客が喜んでくれれば、それに迎合するほどのものだ、という雰囲気をつくりだした可能性があります」と指摘します。

■このような問題は、なにも第三世界だけでなく、先進国でもおこっていると鳥越さんはいいます。それは「
コミュニティの崩壊」という問題です(地域社会の自立性が低下してしまっているとでもいいますか・・・)。日本では、国や地方自治体もコミュニティ政策として取り組んできました(鳥越さんによれば、あまりうまくいかなかったのですが)。このような問題を真正面から取り上げた人に、アメリカの政治学者
ロバート・パットナムという人がいます。“
Bowling Alone”という本を書いた人です。表紙をみると、面白いですね。男の人が一人で孤独にボーリングをしています。少し長くなりますが、鳥越さんの要約を引用してみましょう。
■以下は、鳥越さんの要約です。「ボランティアの組織も含めて、いろいろな地域の社会の集まり、日本でイメージすれば自治体や婦人会、PTAやスポーツクラブにあたるものですが、そういうものがどんどんなくなってきた。ところが詳しく調べてみると、アメリカ合衆国でただひとつ、ボウリングの組織や、やっている人の人口だけが減っていなかった。なぜかと思い、さらに調べてみたところ、パットナムは次のようなことがわかったというのです。つまり、かつては地域社会の人たちが寄り集まってボウリングのクラブを作って、ボウリングをしていた。ところがたしかに、ボウリングの人口は減っていないけれども、やっている人は皆、一人で孤独にボウリングをしていることを見つけます。タイトルの『Alone』というのは、ここでは『一人で』とか『孤独に』という意味であって、孤独にボウリングをしはじている。つまり地域社会は崩壊しているというねシンボリックな意味にいおて『Bowling Alone』というタイトルをパットナムは、自分の論文につけたわけです。」(59ページ)
■鳥越さんは、このパットナムの議論をこれまでのご自分の
生活環境主義の主張(小さなコミュニティを評価し、小さなコミュニティがしっかりすることこそが、地域の人びとの生活保全や環境保全にとって重要だ!)に引き寄せながら、この社会関係資本を「人間関係の組織や共通の社会規範」と説明しています。「人間関係の組織」と表現されています。しかし、組織といいますと、「特定の共同目標を達成するために、人びとの諸活動を調整し制御するシステム」と一般的には理解されます。そのような理解を前提にすれば、社会関係資本とは、むしろ、
網の目状のネットワークとして捉えたほうがより適切なのではないかと思います。また、社会規範ということも、
水平的な関係のなかでの規範なのであり、
信頼や互酬性といってもよいかもしれません。鳥越さんの主張は、「コミュニティはソーシャル・キャピタルを熟成する器の役割をはたし、それが伝承された価値や文化を守る」というものです。
■この鳥越さんのまとめ方には、多少異論がある人がいると思いますが、私が注目したいのは、そのあとの部分です。
「
日本の各地で行なわれているまちづくりや、あるいは最近の地域通貨などが行なわれている現場に行き、関係者に聞いてみますと、このような活動をしていて何がもっとも得る価値のあるものかというと、今まで知り合うことのなかった人々とのコミュニケーションができることだという指摘を、しばしばされます。これこそが実は、ソーシャル・キャピタル育成のプロセスであり、わが国にも自発的に求められはじめた現象だと言うことができるのです。」
■私もこの点については、まったく同感です。通常の制度化された組織や集団を超えたり、すり抜けるような関係(水平的・信頼・互酬性)のネットワークが(通常では知り合うことのなかった人びと同士の関係)、長期的な視野にたったときたいへん重要になってくるように思います。しかし、そのような社会関係資本は、一朝一夕にできるわけではありません。以前、
紹介したBlogのかなで、経済学者の
塩沢由典さんも、「
社会関係資本は、ゆっくり蓄積する以外にありません。」と述べています。その通りだと思います。行政がトップダウンになにか施策を展開することのなかで、直接的に生み出されるものではないのです。施策は、社会関係資本の蓄積を支援するとはできても、それを産み出すのは市民や地域住民以外にありません。
■ここまでくると、先日投稿した記事「函館の『バル街』(その3)」のなかに書いた、次のことと社会関係資本の考え方は結びついてきます。
「
日常的に、バルに人びとが集まり、知らない人どうしでも、自分たちの函館の地域社会の様々なことがらについて語り合い、コミュニケーションをする(そして時には議論をする)、そのような『場』があちらこちらで生まれてくるといいな〜。そのような『場』があちらこちらにあることが、結果として、函館の街の将来の夢を描き、それを形にしていくような社会的な動きの『種』や『肥やし』になるのでないのかな〜。」
■「『種』や『肥やし』になるのでないのかな〜。」と書きましたが、今、この社会関係資本という概念を通して考えれば、「バル街」は、社会関係資本を蓄積していくための、ひとつの仕掛けと位置づけることもできるでしょう。優れた農家は、
カチカチで地力が衰えた畑の土を、フカフカでよく肥えた土にかえていきます。フカフカの畑では、よく作物が育ちます。比喩的にいえば、社会関係資本とは、この「フカフカ」の度合いとたとえることができかもしれません。私が思うに、もし「バル街」が、函館の街の社会関係資本を蓄積していくことを促進するような機能をもっているとすると(「
バル街」の函館のまちづくりに対する潜在的順機能)、たいへん興味深いなあと思うわけです。