「10+1 No.42 特集/グラウンディング(その2)」
環境/まち・東京

■本当に申し訳ないのですが、最近、あまりの忙しさにブログを更新している時間と精神的余裕がなくなっています。「今日こそは更新されているだろう…」とクリックし続けてくださった皆さん、本当にごめんなさい。このように事態に陥っている一番の理由は、仕事に関して自己管理がうまくできていないということあるのですが、もうひとつは、なんだかいろいろな仕事が集中してくる“お年頃”になってしまっているせいでもあります。こうやって更新ができないあいだに、タイミングを逃してしまった話題があります。ブログに記事を投稿するのには、食材と同じように“旬”というものがあるからです。その筆頭が、5月11日の「
10+1 No.42 特集/グラウンディング(その1)」の続きです。ずいぶん間があいてしまいました。今日は、少し気合を入れて、続きの記事を投稿しようと思います。
■「
10+1 No.42 特集/グラウンディング(その1)」の最後に、共感を覚えつつも、「『都市』そのものに対する問題意識と、『都市』を通してなにか別のものを見ようとしている問題意識との間にある、微妙なズレのようなものにも気がついたのでした」なんて思わせ振りなことを書いてしまったものですから…。コメント欄で「息を詰めて続きを…」とお書きにいただいた石川さん、記事を読んで「なんだよ〜」とガッカリされるかもしれませんが、そのさいはどうかご容赦ください。
■「特集/グラウンディング」のたくさんの記事、大変興味深く拝読しました。だけど、今回もまず注目したいのは、座談会「グラウンディング 地図を描く身体」です。結論的なことを先に書いてしまいますが、ここで深く印象に残ったことは、次のことでした。
■ひとつは、座談会の最後のほうでの、「10+1」の編集による「この特集を機に取りあえず中間的な報告がなされて、さて、次はどういう方向にいくのか、何が成果として目指されているのかをお聞きしたいのですが。」という質問です。私には、この対座談会に出席されている皆さんのおこたえが、(読者の立場にたった?)編集者の質問に必ずしもストレートに対応しているようには思えなかったのです。
■もうひとつは、座談会の冒頭、石川さんの、「『鳥の目』的なものと『虫の目』的なものの乖離とか、体験や発見を共有する方法とは、言ってみれば『問題意識』として言葉にすることができたことは収穫でした」(42頁)というコメントに対する座談会の皆さんの反応が、ひょっとして、うまくかみあっていないのではないかと思えたことです。
■この「鳥虫・乖離問題」に関して以下のような発言をされています。長い引用になりますが、抜き出してみます。
「でも、後になって思うに、『共有する』って容易なことじゃない。というか、下手に共有しようとしてしまうと、それぞれの『虫の眼』的なものが失われるような気もします。(中略)局所的な地面の体験は非常にパーソナル。それを『地形』とか『河川』というメタな名前で呼ぶことで『共有』がなされるわけだけれど、『地形』とか『谷』という概念がもう鳥の目の論理ですよね。地面からは見ることができないのに、そう呼んだ途端に自分がそのなかにいる、自明のもののように感じてしまう。集まったテキストもそれぞれとても面白いけれども、タイトルがついて目次に収まって、製本されて書店に並ぶと、もう鳥の目になっている。虫の目の獲得は、鳥の目を常に自分のなかで翻訳しないと駄目ですよね。誰かと共有するためには鳥の目に加工する必要がある。それはまた虫の目に分解されないと使えない。」(45〜46頁)
「今回、『鳥/虫』的な問題が、実はさまざまなものに存在していて、また応用可能なものである、ということもわかりました。『鳥/虫』問題、全体的なロジックと個人的な切実さという二重性は、広域計画とデザインの乖離とか、地球環境問題と自分のゴミを分類する行為とか、あるいは建築の図面と実際の空間とか、さまざまな場面にさまざまなスケールで現われている。何かを計画するとかデザインするという行為はほとんどすべて、『鳥/虫』問題の応用だと言えるんじゃないか、とも思いました。」(47頁)
「たしかに、今回のような方法は、大きな二項対立の図式を細かくして、多様化させるという効果はあると思います。でも、それで人工衛星的な視点と地面を歩く行為との二重性が解消されるわけではないと思います。さまざまなスケールの『まなざし』がありえる、という意味では『多様化』だけれども、それはやはりあくまでさまざまなスケールの『プチ二重のまなざし』であるという。そういう構造をしていることに、自覚的じゃないといけないと思います。」(48頁)
(「5mメッシュ標高地図」に関連して)「でも、実はこれは僕が意図的に、標高差を鮮やかに表現するために工夫しているし、元のデータも国土地理院が一生懸命、生の測量データから建物や橋梁を除去して、これが本当の地盤です、と言い張っているものです。実際はこの地盤を見れるわけじゃない。街にあるもののうち、どれを地形として、何を地形でないとするかは地図製作者の手に委ねられていて、この地図上で僕らが見るのは、彼らが『地面である』と見なした情報の集積なのです。つまりこれは、より緻密に巧妙になったノーテーションです。」(49〜50頁)
■このように繰り返し語られる石川さんの「問題意識」とは、ひとつには、テクノロジーの進歩により、「鳥の目」と「虫の目」を容易に連結できるようになった思い込んでいる現代社会に浸透した意識(社会的意識)、そのような意識に対する懐疑です。あるいは、そのような思い込ませるような情報が、私たちの社会のなかに充満していることに対する警戒心でもあるように思います。座談会ですが、座談会に出席した皆さんによる発言は、この石川さんのある意味で深刻な「問題意識」に近づきながらも、ギリギリのところでかすめてどこか別のところに向かっているように、私には思えるのです。
■このように「鳥虫・乖離問題」に私がこだわるのは、石川さんのブログ『身辺メモ』の
「Tokyo according to Kenzo」(2006/1/29)のコメント欄でも書かせていただきましたが、私自身が、環境問題と流域管理というテーマに関する研究プロジェクトに参加しているからです。この「鳥虫・乖離問題」については、最近、明治学院大学で開催された「環境三学会合同シンポジウム−コモンズの現代的意義−」(環境法政策学会、環境経済・政策学会、環境社会学会主催)で司会をしたときにも、深く考えることになりました。同じ社会科学でも、法学、経済学、環境社会学(環境民俗学)では、それぞれ得意とする空間スケールが異なっており、そのために、同じ事象を見つめる(調査、分析、解釈…)にしても、ズレが生じてくるのです。そのズレをどのように取り扱うのか、諸学の連携は可能なのか…、まあ、そのあたりの問題なのですが、少々、話しの展開が小難しくなってきました。申し訳ありません(^^;)。
■次回は、この話しの続きとして、石川さんが「必要なのは、鳥・虫の二重性をよく自覚したうえで、あらためて鳥の目を逆手に取って使い倒す能力、いわば『地図のリテラシー』を養うこと、虫の目の解像度、地面への感度を上げることである、と私たちは考える。鳥と虫の二つの電極を磨き、プラズマのように「ショート」を生成する。」(「Bird's Eye,Bug's Sprit」(57頁))とお書きになっていることに対して、思ったことを述べいこうと思います(このことについては、「
はまってしまったGoogle Earth マズイ!!」(2006/1/14)の石川さんのコメントをご覧ください)。
【追記】↑に書いた研究プロジェクトにご関心のある方は、ぜひ「脇田健一,2005,「琵琶湖・農業濁水問題と流域管理―『階層化された流域管理』と公共圏としての流域の創出―」『社会学年報』No.34(東北社会学会).」をご参照ください。もっとも、学会誌なので大学関係者でないと手に入りにくいですね。申し訳ありません。
(トップの写真は、2005年11月25日の記事「2つの『森』の思想(その1)」でも掲載したものです。六本木ヒルズの「森タワー」52階の「東京シティビュー」から確認した、青山墓地に隣接する、外苑西通に沿った地域です。、「
10+1 No.42 特集/グラウンディング」に掲載された石川さんの「Bird's Eye,Bug's Sprit」(56頁)にも登場します。この記事まだ続きます。次の更新はいつになるのだろう…)

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