
■中国・浙江省・寧波に出張してきました。「
中国に出張してきます」にも書きましたが、「
文部科学省科学研究費補助金 特定領域研究『東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成 ―寧波を焦点とする学際的創生―』(研究代表者:小島毅・東京大学大学院人文社会系研究科助教授)」(ニンプロ)の「
東アジアにおける死と生の景観」班の一員として、寧波市郊外の農村地域で調査をおこなってきました。葬儀の調査です。ここでは、今回の調査させていただいた葬儀の様子を少しだけ紹介させていただこうと思います。
■トップの写真は、葬儀をすませ、火葬場でご遺体を火葬した後、その遺灰を墓地に埋葬しているところです。故人は、60歳代の男性で癌でお亡くなりになりました。奥様は、すでに20年程前にお亡くなりになっており、むかって右側の蓋がしまっている部分には、奥様の遺灰が埋葬されています。

■墓穴では、まず爆竹が鳴らされます(墓穴に潜む邪鬼を追い払うためですが、葬儀の過程で、しばしば爆竹が用いられます)。爆竹の灰を取り除いたあと、埋葬用の布団が敷かれ、その上に遺灰を入れた棺が置かれました。棺の前には、靴(遺体に履かされた葬儀用のもの)や、棺の上に、故人が実際に着用していた下着やシャツ、そして上着や防寒着等もきちんとたたんで置かれます。服だけではありません。麻雀のセットなども衣服と一緒に墓穴のなかに入れられました。あちらの世界に行かれても、退屈しないようにとの配慮です。そして一番上には、葬儀用の布(あの世で立派な服を作るための生地)が置かれました。
■このあと、故人(男性)側の蓋が閉められ(妻はすでになくなっており、遺灰は埋葬され蓋がされている)、墓穴の縁にセメントを塗り全体の蓋がしめられました。いわゆる墓碑は、トップの写真では隠れていて見えません。墓碑は、左上の写真からわかるように、小さな折りたたみ式のテーブルに作られた祭壇の左側にあるコンクリートの壁面に埋め込まれています。注目してほしいものは、苗木が植えられていることです。この点については、後ほど、説明することにします。

■中国に何度も行かれた中国通の方からみれば、「このお墓、なんだか変…」ということになるのかもしれません。というのも、中国の伝統的な葬儀は土葬であり、農村地域にいくと、左の写真のような墓をたくさん見かけるからです(個人のお墓なので、墓碑は見えないようにしました)。伝統的な考え方では、「孝」の精神が重視され、葬儀は土葬でおこなれてきました。「亡くなった親を火葬にするなんて親不孝だ」、というわけです。少し背景を説明しておきましょう。
■寧波市政府関係者から、以下のようなお話しを伺いました。1956年4月27日の中央工作会議のなかで、毛沢東は、従来の土葬を改革し火葬に変え、封建的な風俗を取り除くことを奨励しました。広い国土をもつ中国ですが、墓地がつくられる耕地(農地)などは限られており、すべての人を土葬にしていると土地が足らなくなってしまうからです。文化大革命時の混乱を経た後(実質は80年代に入ってから)、寧波市では土葬が全面的に禁止になりました(少数民族を除いて)。伝統的な葬送儀礼についても、厳しく管理するようになったといいます。使用できる墓地の面積も、「双穴」(夫婦墓)のばあいだと1u、「一穴」(一人墓)のばあいだと0.7uだそうです。かつて見られた一族の墓地(宗廟、祠堂、祖廟)の建造と回復も禁止されています。
■2002年12月には、「寧波市殯葬管理条例」が施行され、墓地(公的に造成された「公益性公墓」と民間によって造成された「経営性公墓」)は、市政府の民生部門が条例にもとづいて審査と管理を行なうようになりました。80年代は厳しく管理していたそうですが、現在は、一部は民営化を許可したり(経営性公墓)、柔軟に「調整」している過程だといいます。ここでいう「調整」とは、無理に「殯葬改革」(伝統的な葬儀や墓に関する風習の改革)を推し進めるのではなく、啓蒙したり、経済的に誘導していく(かつての墓地を整理して新しいく生まれた土地に住民のための施設を作るなど)ことにより、少しづつ改革していくこということなのでしょう。
■寧波市では、このような墓地に関して、以下のようなスローガンを掲げています。「経営性公墓原林化、公益性公墓生態化、三沿五区無墳化」。翻訳すると、「経営性公募については、原林(自然の山)のようにしていこう(環境と美に配慮する)。公的な墓地については、森林に戻していこう。三沿五区(鉄道・道路・河川の三沿と、住宅区・水資源保護区・風景名勝区・経済開発区・耕作区の五区)からみえるところには、墓を無くしていこう」ということになります。従来の土葬の墓も、新しい公益性公墓につくりかえられているようです。トップの写真も、そのような公益性公墓のひとつなのです。苗木が植えられているのは、「公益性公墓生態化」の方針によるものです。ですので、数十年後には、ここは見た目には山に戻っているはずです。
■このように中国の墓地は、毛沢東の火葬奨励以来、大きく変化してきたのです。では、伝統的な葬送儀礼についてはどうでしょうか。毛沢東は、封建的な風俗を取り除くことを奨励し、文化大革命にときには伝統的な葬送儀礼は行なわれることはありませんでした。では、現在、葬送儀礼はどうなっているのでしょうか。
■今回、お世話になった寧波大学・文学院教授の張如安先生によれぱ、北宋(960〜1127年)の時代に、寧波地方では儒学が定着するとともに仏教の隆盛と世俗化が進み、また道教の影響などもあり、儒教・仏教・道教の「三教」が人びとの死生観や葬送儀礼に大きな影響を与えたのだそうです。そのような「三教」の影響は、今でも濃厚にみられます。私たちが調査した鄞州(ぎんしゅう)区の葬送儀礼は、地域によって微妙に異なりますが、簡単にいってしまうと、儒教的原理に仏教的要素や道教的要素を組み込んだもののように思えました。ただし、このような葬送儀礼は、伝統的な色彩をもちながらも、かつてのものとは異なっているはずです。というのも、ひとつには、文化大革命の影響により伝統的な葬送儀礼は一切禁止され人びとの記憶のなかにしか残らなかったからです。
■現在の人びとは、一部の高齢者や仏教の信者などを除き、葬式の儀礼をどのようにすればよいのか、よくわかっていません。まるで、伊丹十三監督の映画『お葬式』のようです。中国のなかでは仏教が盛んな寧波市ですので、仏教の信者さんの葬儀は僧侶が関りますが、通常は、葬儀中の宗教的な儀礼もすべてお葬式屋さんが行ないます。もっともお葬式屋さんとはいっても、会社組織があるわけではありません。個人営業のネットワークのようなものがあり、連絡をとりあって役割を分担して葬儀をおこなうようです。ここでは詳しくは、説明する余裕はありませんが、その一部だけを説明しておきましょう。

■写真は、火葬場にいく前の様子です。棺のはいった御輿を前に、簡単な祭壇が設営され、直系と傍系の親族が礼拝しているところです。故人の直系の子孫と、その連れ合いは、白い喪服を着用します(女性のばあいは頭巾付き)。そして直系の子孫は、竹て作った杖を持ちます。葬儀ですから、当然、悲しみに包まれているわけですが、直系の女性たちは、声を上げて泣き叫びます。「ああ、お父さん、どうして亡くなってしまったのですか。これから、私は誰に相談したらよいのでしょう」というように、悲しみを表現します。本当に悲しいのですが、それとともに、その悲しみを表現することが、「親孝行」を表現することでもあり、そうすることが暗黙のうちに期待されているのです。とても儒教的です。
■さて、写真の解説をする必要がありますね。火葬に出発する直前の一連のシーンなのですが、故人の長男夫婦、長女夫婦、長男夫婦の息子、長女の夫が跪いて礼拝します。長女の夫以外は、白い紙で装飾を施した竹の短い杖をもっています。背後の人びとは、白い帽子をかぶり喪章はつけていますが、喪服は着ていません。この人たちは、傍系親族です。このあたりも、大変に儒教的ですね。しかし、儀礼のかなでは、簡単に僧侶の服装をしたお葬式屋さんが「阿弥陀仏」と念仏も唱えます。インタビューしたところ、「自分でお経を勉強した。自分は道士だ」とのことですが、どこかの寺院で修行を積んだというわけではないようです。
■北宋時代、儒教・仏教・道教の「三教」の大きな影響により形成された、いわゆる“伝統的”な死生観や葬送儀礼が、解放後(革命後)に進められてきた「殯葬改革」というトップダウンの政策や、市場開放政策や様々な近代化政策のなかで、どのように変容しているのか、引き続きそのあたりのことを明らかにしていきたいと思います。少し長くなりましたね、今日は、ここまでにしておこうと思います。
【追記】姚さんに、誤字のご指摘をいただきましたので、「道士」と修正いたしました。姚さんありがとうございました。

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