
■2004年10月30日(たぶん、日付はあっていると思いますが…)、朝日新聞で「地上絵 ぼくの『東京ナス化計画』」という記事をみつけました。小さな子どもを背負って自転車に乗っている男性の写真とともに、「東京ナス化計画」という文字にひかれて記事を読んだのでした。この記事で、GPS(全地球測位システム)の軌跡をもとに地図上に絵を描く“地上絵師”、ランドスケープ・アーキテクトの石川初さんのことを初めてしりました。そして、「へ〜、面白いことを考える人がいるものだ」と驚きました。その後(いつだったか忘れましたが…)、石川さんのホームページも拝見するようになり、より一層、石川さんの活動に強く関心をもつようになりました。
■その後、私は、2005年の1月からブログを開始しました。そして、しばらくしてから、東京在住のAkiさん(秋山東一さん)をはじめとする建築家の皆さんや、写真家のmasaさん(村田賢比古さん)と、ネット上で交流させていただくようになりました。最近では、JEDIというグループにも入れていただき、アースダイビングという地形や町歩きを楽しむイベントもご一緒させていただいています。さて、Akiさんやmasaさんたちと交流しはじめた頃、ちょうど谷戸であるとか、中沢新一さんの『アースダイバー』だとか、そういう話題でブログを通してもりあがっていた頃だと思います。ちょっとしたことから、「ご近所ブロガー」のあいだで、石川さんが運営に参加されている「東京スリバチ学会」のことが大いに話題になったのでした。

■「
東京スリバチ学会」とは、アーキテクトの皆川典久さんと、石川さんのお二人が中心になって運営なされています。「東京スリバチ学会」の設立趣旨ですが、以下の通りです。
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東京スリバチ学会とは、東京都心部のスリバチを観察・記録する目的で、去年の春にいきなり設立されたグループです。
我々が「スリバチ」と呼ぶのは、台地に低地が谷状に切れ込み、3方向が斜面に囲まれたような形状の地形になっている場所のことです。
江戸/東京は、武蔵野台地と荒川低地にまたがる形で発達してきました。江戸時代、台地上は武家屋敷や寺社、低地は町家や農地、というように、特徴的な地形を利用した土地利用が行われてきたことはよく知られています。
この地形/土地利用は、現代の東京の土地利用にも反映されています。特に、台地と低地が入り組んでいる都心部では、いわゆる山の手と下町とが交錯して接し、都心に路地裏の長屋的空間が出現したり、急峻な斜面と街路や住宅との拮抗状態が観察できたりして、東京の都市風景に陰影と趣を与えています。
近年、変化し続ける東京の都心にあって、こうしたスリバチもその姿を変えつつあります。都心部の再開発によって、物理的に消滅した「スリバチ」もあります。
私たちは、変わり続ける都市のダイナミズムと、歴史の痕跡を留める「地形」を観察しつつ、東京の意外な「容貌」を記録しようと考えています。
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■この「スリバチ」観察の面白さについては、『
10+1』という雑誌の、ネット上のデータベースで詳しく知ることができます。「
こちら」です。この記事では、「スリバチ」が、「公園系スリバチ」「下町系スリバチ」「再開発系スリバチ」の3つに類型化され、それぞれの「スリバチ」の魅力について解説されています。詳しいことは、実際にお読みいただくとして、ここからが本題。私は、この「東京スリバチ学会」に参加してみたいとずっと思っているのですが、関西在住ということもあり、いままで一度も参加できていません。これまで、masaさんが『Kai-Wai散策』で報告されている関連エントリーを拝読するばかりでした。ところがです。今回(といっても数か月前のことですが…)、やっと、以前に「東京スリバチ学会」の皆さんがフィールドワークをされた赤羽台地のスリバチを体験することができたのでした。それも、ただの「スリバチ」ではありません。「真正スリバチ」です。
○「
スリバチ学会@赤羽」『Kai-Wai散策』
○
『Kai-Wai散策』のその他の「東京スリバチ学会」関連エントリー

■上に引用しました「東京スリバチ学会」の設立趣旨にもありますように、「スリバチ」とは、「台地に低地が谷状に切れ込み、3方向が斜面に囲まれたような形状の地形」のことなのですが、赤羽台地のばあいは「真正スリバチ」、つまり「4方向を視野面に囲まれた形状の地形」なのです。赤羽台の「真正スリバチ」は、赤羽台団地や桐ヶ丘団地の近くにあります。赤羽台団地を見学したのですから、この「真正スリバチ」を"表敬訪問"しないてはありません。場所は、上のGoogle Earthの画像で白い丸で囲んだあたりです。そして、トップの画像は、その「真正スリバチ」の形状がよくわかるように高低差を強調したものです。

■この4枚の写真から、「真正スリバチ」が実際にはどんな感じなのかを理解していただけると思います。「真正スリバチ」の底にあたる地点から、上段左は東側を、上段右は南側を、下段左は西側を撮ったものです。もう1枚、下段右側は、「真正スリバチ」の北側の斜面ですが、さきほどの撮影地点よりも、少し北のほうに移動して撮ったものです(桐ヶ丘団地へと上がる坂道)。なんとも不思議な気持ちです。こんな地形がどうして生まれたのでしょうね。それから、赤羽台地は、もともと農地だったわけですが、この「真正スリバチ」は、どのように利用されていたのでしょうか。

■これは、
国土地理院土地条件図の東京西北部から切り取ってきたものです。この国土地理院の土地条件図って、面白いですね〜(ここには入っていませんが、板橋区のあたりは、これは脳の断面かと思うぐらいに複雑です。歩いてみたいな〜と思います)。この土地条件図の、ちょうど真ん中あたりを見ますと、「真正スリバチ」が確認できます。よ〜くみると、わずかに、東の谷にむかって切れ目があります。地理や地形のことがよくわからないままに歩いたので、この切れ目を確認することができませんでした。実際のところは、どうなんでしょうか。このあたりが、地理的なことに疎いただの社会学者の悲しいところです…。私の大変・大変素朴な疑問は、「4方を斜面に囲まれた『真正スリバチ』に降った雨は、どこに流れていくのか…」という、なんともお粗末なものなのだったのですが…(「地下鉄って、どこから入ったんでしょうね」春日三球的な疑問です)、たぶん、この土地条件図にある切れ目から流出しているのかな。やはり、専門家と一緒に歩かないと、この地形の面白さを十二分には理解できませんね。残念。とはいえ、短い時間ではありましたが、やっと「真正スリバチ」を表敬訪問できただけでも、よしとしなければなりません。

■「真正スリバチ」の北の斜面をほぼあがったあたりには、ほぼ東西に道路が走っています。その道路に沿って、小さな神社がありました。お参りされている方に、お話しをうかがうことができました。戦災で焼け出されて、この近くに移ってきた…ちょっと記憶が曖昧ですが、そのようなお話しを伺うことができました。また、桐ヶ丘団地が建設される以前、まだ軍関係の施設があったころから、この神社があったとのことでした。もう少し時間があれぱ、この赤羽台地に団地が建設される前後のことなど、地元の方にいろいろお話しを伺えたのでしょうが、masaさんとは、お昼にお会いする約束になっていました。赤羽駅に戻り、埼京線で十条駅にむかったのでした。「赤羽台地を歩く」のシリーズ、別のテーマのエントリーをはさみつつ、まだまだ続きます(…いや、本当ですって)。

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