■内容は、日付とは関係ありません(実際の日付は、2011年1月24日です)。このブログには、「wakita・ワキタ・脇田」というカテゴリーがあります。自分の名前やこれまでの人生に、「広い意味で」関連する事柄(コジツケのばあいも…)をアップしようと思い、このカテゴリーをつくりました。ところが、残念なことに、アップしたエントリーを複数のカテゴリーにまたがって登録することができません。「wakita・ワキタ・脇田」のカテゴリーに登録しているエントリーであはあっても、「ABOUT」にも入れておきたいものがあります。ということで、
2008年9月25日にアップした「団地族」を、こちら「ABOUT」にも「転載」しておきます。私の記憶は始まりは「団地」にあります。
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■本文もなく、「続きは後ほど」なんてだけ書いて、写真だけアップしてしまいました。申し訳ありません。そのあいだに、iwakiさんからは、2つもコメントをいただいてしまいました。そうです。コメント欄のiwakiさんとのやり取りにもありますが、ここに写っている赤ん坊は、私です。まだ1歳です。つまり49年前の写真というわけです。実家のアルバムのなかにあったものです。で、なんでこんな写真をわざわざスキャニングしてまでアップしのかといいますと…。いくつかの理由があるように思います。
■ひとつは、建築家の秋山東一さんが、ご自身のブログ『
aki's STOCKTAKING』のなかで、自己紹介をおこなう[
ABOUT]というカテゴリーを用意され、ご自身の人生を振りかえっておられるのを拝見して(
たとえば、こちら)、今年の春に50歳になった私もちょっと真似して…という気持になったからです。ふたつめ。今年の夏、ある建築関係の雑誌から、「2DKに代表される団地暮らしについて」短文を書くことを依頼され(締め切りを大幅に過ぎてしまって、編集の方にはいろいろご迷惑をおかけしました…)、その短文を書くためには、両親のところに行き、昔、団地に暮らしていた頃のアルバムを借りてきたということも、理由のひとつかもしれません。しかし、なんといっても一番の理由は、次のことかなと思います。先月、母の入退院があり、今月は、こんどは父が入院するという出来事が、背景として一番おおきなものかなと思うのです。
■私よりも年上の皆さんからすれば、私なんぞは、まだ洟垂れの類でしかないのですが、そんな洟垂れオジンでも、50歳になってみると「自分の人生が歴史化していっているよな〜」と思ってしまうわけです。人間的に成熟していればよいのですが、成熟のないまま、時間だけが経過し歴史化が進行している…まあ、そんな感じでしょうか。そんな50歳の私にとって、高齢の両親があいついで体の調子を崩すということは、ちょっとした“衝撃”でした。入退院の具体的な対応でバタバタしたということもありましたが、なにか、自分の人生を振り返り、残りの人生を考える、いや、正確には考えさせられる、そんな重みのある出来事であるように思ったわけです。また、一組の男女(父と母)とその子供たち(私と妹)による「家族」という社会的ユニットが、最終ステージむかえている…、そういうことを実感しているわけなんです。
■…↑上記のようなことを書いてから、ずいぶん時間が経過してしまいました。入院している父のこと、残されて一人暮らしをしている母のこと、2人を支えているあいだに、アッという間に時間が経過してしまいました。最初は、突然の事態にあたふたしていたわけなんですが、今は、週の真ん中あたりは妹が、週末は私が支える、そんなパターンが定着してきました。というわけで、やっと、このエントリーの続きを書くことができるようになりました(今日は、10月5日です)。大変個人的な写真ではありますが、少し説明させていただきたいと思います。

■私の両親は、昭和32年に結婚しました。翌年、昭和33年に私が生まれました。新婚生活のスタートは、神戸市東灘区にあった二階建て長屋の一階部分でした。両親の話しによれば、間取りは、六畳と四畳半、小さな台所と便所はついていましたが、風呂はありませんでした(ちなみに、長屋とはいえ新築でした)。そして昭和34年、我が家は、建設されたばかりの御影団地に入居した。御影団地といっても、よくわかりませんよね。神戸は、南は瀬戸内海と大阪湾に面しており、背後には六甲山地が海の近くまで迫っているため平地が少なく、しばしば「坂の街」と呼ばれることがあります。私たちの一家が入居した御影団地は、そんな「坂の街」の六甲山の麓にある団地でした。南側に階段のある5階建・中層集合住宅の4階でした(南側に階段があるのは、公団住宅のかなでも古い形式のものです)。間取りは、6畳と4畳半の2部屋にDK(ダイニングキッチン)。キッチンの流しは、ステンレス製。トイレは洋式の水洗便所。風呂はガス風呂、風呂桶は木製でした。私の記憶は、この2DKの御影団地での暮らしから始まるのです。そういう意味で、御影団地での暮らしが、私の人生の原点ともいえるのです。
■このエントリーの2枚目の写真は、両親がアルバムのなかに保管していたものです。サンケイ新聞社が、自社の飛行機から撮影したものです。この写真では、10棟の中層集合住宅と8棟のスターハウスが確認できます。こういう写真をわざわざ新聞社が飛行機から撮影するということは、「団地」の建設ということが、時代を象徴するひとつの出来事だったんでしょうね。そしてトップの写真ですが、すでに、たくさんいただいたコメントへのお返事のなかに書かせていただきましたが、私が1歳のとき、昭和34年当時のものです。私たち一家が暮らしていた御影団地の東側、宅地造成が進められている場所でとったもののようです(2枚目の写真の左側は、建物がまだ建っていませんよね)。おそらくは、三脚でカメラを固定して、セルフシャッターで撮ったものだと思われます。当時、団地族という羨望を込めた呼び方がありました。この写真には、我が家も団地族になれたという喜びがあらわれているように思うのです。けして広くはない2DKという間取りながら、合理的で衛生的かつ快適な暮らしができることに対する喜びがあらわれている…。息子の勝手な思い込みかもしれないが、私にはそう感じられるのです。
■2枚目の写真をもう一度ご覧ください。住棟のあいだには、高い松の木が確認できます。私は、幼稚園入園前に、近所の少し年上の子どもたちと、団地のなかにある公園や、高い松の木のあいだにある低木の繁みのなかを走り回ってよく遊んでいました。インターネットでこの御影団地のことを確認してみてみると、「自然地形と現況林を保存した団地整備」が進められたと説明されています。なるほど…。私が、走り回って遊ぶことができたのは、そういうわけだったんですね。

■この写真は、私が暮らしていた住棟の前にある公園で写したものです。滑り台の上にすわっている男の子が私です。私の後ろにたっている赤ちゃんは、1つ上の階(5階)の善樹(よしき)ちゃんです。どうしているんでしょうね〜、善樹ちゃん。おそらくは、48歳ぐらいのはずですが…。で、よ〜く見ると、私の「社会の窓」が開いています。
■この御影団地や、私が暮らしてきた団地暮らしのお話しを、
『すまいろん』という雑誌に寄稿しました。お断りしておきますが、たいしたお話しではありません。自分の思いで話し…でしかありません。おそらくは、今秋に発行されるはずです。「nLDKもわるくない」という特集のなかの、「私のすまいろん」というエッセーです。もし、次号をご覧いただけるチャンスがありましたら、そのついでにご笑覧いただければと思います。
■このエントリーを9月25日にとりあえずアップし、その翌日、建築家の秋山さん(Akiさん)からは、「生きてきた人間を記録していくことはブログの大きな役割ではないかとも考えています」というコメントをいただきました。たしかに、その通りだと思います。というわけで、今後も、過去の「個人記録」をエントリーできたらと思っています。
【追記1】■昨日(10/29)、『すまいろん』が手元に届きました。コメントにも書きましたが、なんだかひとりだけ浮いている感じです…。パラパラっとめくって思うに、建築関連の専門家の皆さんは、3LDKという間取りといいますか、建物の内部の話しに集中されているような感じですね〜…。まあ、特集は、あくまで間取りとしての「nLDK」ですからね。お時間がある方、そしてお手元のこの雑誌がある方、私の書いたもの、手にとって斜め読みなさってくみてください。
【追記2】(2011/02/05)■『すまいろん』の原稿(jpg)をアップしておきます。本人の原稿とはいえ、出版元の(財)住宅総合研究所のほうで何か問題があるとご判断される場合は、ご連絡ください。